長岡亮介のよもやま話468「教育問題の本質的な解決に向けた問題設定の重要性」

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⏰金曜日 2025.08.22 10:06 · 7mins

教育に関わる多くの厄介な問題のルーツは、私が思うには、問題の立て方そのものに誤りがあるというか、そのように問題を立ててしまって、その回答を見つけると、その回答は否応なくインチキのものへと導かれざるを得ない、という類の問いの立て方にあるのではないかと思うのです。

問題は正しく立てれば、その問題を解くことによって、ある局面が打開され、事態は前進する。そういうふうに言えるわけですが、問題を正しく立てないと、そもそも問題を解くことができないだけではなく、問題を解こうとする努力の中であがくことはできても、その問題をト解くという肯定的な解決へと前進するということが望めない。むしろ、問題を解くことそのものの中に、どっぷりと浸かってしまう。あるいは、泥沼にはまってしまう。そういう問題があるということです。

例えて言えば、それに似た問いは、「良い人生とは何か」という問いですね。これは非常に大切な問いですけれども、その「良い人生とは何か」という問いに答えるのに十分な人生経験とか何かが蓄積していないところでは、例えば、幼稚園のこどもたちが、子供たちなりに良い人生とは何かっていう問いを立てようとすると、それは実に陳腐な意味のない回答をして終わりになる。問いを立てることによって、その問いが陳腐であるということが明らかになってしまう。これは良い問いとは言えないし、その問いによって、難しい問題の局面が打開されたとはいえない。問いを立ててみたというだけですね。

実は世の中の多くの問題には、このように問いを立てて、それに応えることがそもそもできないという、いわば「深い問い」「難しい問い」がいっぱいあるわけでありますが、その難しさを無視して、問いを立てさえすればそれで解決へと導かれる、と思い込み、そしていかにも回答としてありそうな回答を見つけては、それをもって模範解答とする。これは、典型的な「誤った問いについての誤った回答」という、私達がしばしば犯しがちな誤りの典型例なのです。

そして、教育を巡る問いに関しては、その多くにおいて、問題を立てる立て方が悪い。問題がwell-posedでない。ill-posedであるということがよくあるわけです。「成績とは何か」というような簡単な問いを一つとってみても、学校の成績っていうのは点数で付けられたものでありますが、その学校の試験の成績が、学校で勉強する学問の、あるいは学問的な行為の目標であるとすれば、甚だしく不自然あるいは不適切ですね。

それは「成績とは何か」という問題を、あまりにも簡単に問題として立てているから。そうすると「成績とは何か」という問いに対して、「成績とは試験の結果として出される数値のことですよ」という答えが戻ってきてしまう。「成績とは何か。」これは問いとして簡単に答えることができない、ということを考えることこそが重要であるのに、「成績とはこういうふうにすると合理的につけられて、場合によっては1点から100点までの間に、人々を序列づけることができます」というようなことを平気で言うようになってしまう。

ちなみに成績と偏差値を誤解してる人が世の中に多くて、多くの人の成績は60点から70点の間に分布しますとか、せいぜい40点から60点の間に、あるいは30点から80点の間に分布します、とこういうふうに言うことはありますが、これは統計的な偏差値という統計処理したデータの話にすぎません。成績っていうのは、もう少し深いものですね。

コメント

  1. 福元美保子 より:

    とても良い深い話だと思いました。ありがとうございました。

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