長岡亮介のよもやま話467「良い問いの立て方が重要である理由を説く論考」

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⏰金曜日 2025.08.22 09:14 · 6mins

これまで数回にわたり、「学校の達成目標というのは一体何か」という問題を考えてまいりましたが、そもそも学校教育にビジネスのような達成目標があると考えることの方がむしろ筋が悪いというか、問いの立て方が悪いわけで、このように間違った問いを立てると、間違った方向の回答へとどんどんどんどん引きずられていってしまいます。

実は、問いの立て方というのは極めて重要で、「良い問いとは、それに対して良い回答が得られるような問い」なんですね。そういうふうに言うと、「自分に不都合の問いを避けているだけじゃないか。」と思われるかもしれませんが、良い問いを立てるということは、良い目標を立てるっていうことと同じくらい、問題を考える上で本質的に重要であるということを強調したいと思います。

学校教育の到達目標は何か。こんなことを論ずる前に、「良い学校教育とは何か。」というふうに問うべきである。良い学校教育とは何かというふうに語るときに、それは曖昧に語るならば、非常にその答えは簡単で、良い友達が集まり、良い先生が指導者として存在し、良い雰囲気で生徒たちが自分の創造的な活動に自分の全生活を捧げるっていうくらい打ち込むことができる。そういう環境が良い学校である。こういうふうに答えることは簡単なことです。

問題は、「良い生徒が集まる。良い先生が集まる。」これが、簡単そうに見えて意外に難しいですね。良い生徒というのは、決して必ずしも良い家庭の子息というふうに限るわけじゃないし、良い先生というのは、いわゆる良い大学の卒業生を集めて得られる、そういうものではない。だから、今の問いに対して回答が明快なのは、回答を構成している言葉の用語を、それぞれをきちっと分解して、精密化していないというところに、回答の簡明さの秘訣があるわけです。

しかしながら、私はここであえて申し上げたいのですが、この回答のこれを構成している各要素を、明確な別の言葉で置き換えてしまうと、その途端に嘘が入ってくるということです。例えば、良い生徒とは何か。良い生徒は良い家庭の子息である。しつけがよくできていて、友達に対して意地悪をしないとか、えげつないことに対して必ずある距離をとっている。こういうようなことを言うと、途端に良い生徒の姿が掻き消えてしまう、消し飛んでいってしまう、あるいはかすんでいってしまうわけです。その良さという言葉を、曖昧に使うということをあえて覚悟して使うっていうことが大切なことで、良い先生に関しても全く同様です。

こういう一種の方法論的な思考停止といいましょうか、「言葉を最後の最後まで明確にするという作業をあえてしない」という態度が、教育を語るときにとても大切であると思うんです。というのも、教育のような事実的な価値観で動いていない学理においては、その中で使われる用語を明確化して分析的に使おうとすると、途端に虚偽が入ってくる。嘘が入ってくるということが避けられないと思うからです。

コメント

  1. 遠藤直哉 より:

    長岡先生、ご無沙汰しております。
    昨年まで安積高校におりました遠藤です。
    今年度、会津高校教頭での異動となり、会津高校で改革を進めております。(びっくりです)
    抽象的なものを、そのまま受け入れる...

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