長岡亮介のよもやま話469「学習の重要性と『learn』の多義性に関する考察」

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⏰土曜日 2025.08.30 05:54 · 14mins

よもやま話という形で、私が一方的に話しておりますが、皆様からのありがたいレスポンスについては、事務局長を通じて十分に把握しております。そのレスポンスの一つ一つにきちっとお答えできないのが、私の限界でありまして、大変それについては失礼しておりますが、どうか事情を考慮してお許しいただきたいと願います。

ところで「学習」という言葉について、「学ぶということが、教えるということ以上に重要視されている」という国際潮流について、お話しした折、私は他動詞・自動詞というような表現を使って、簡略に物事を割り切ってお話いたしましたが、それはあえてそうしたということでありまして、「学ぶ」、英語で言えば、learnという言葉にもいろいろな用法があることは、高校生でもよく知っているところであります。

しかし、大事なことは、「学習において、知識を受動的に受け止める」ということではなくて、しばしば学習においては「教育」ということが重視されてきたわけですが、教育するということよりは、「学生自身が学ぶ」ということを教えるということが、大切であるということが、国際的にも言われている、指摘されているということについて、強調いたしました。

私はこれに関連して、そんなことを今流行りの言葉で言うようなことではなくて、もうものすごく昔から孔子様が指摘しているぞということ、これは何回か触れた話題であると思いますが、改めてもう一度取り上げたいと思います。『論語』という彼の主要な著作集の第1編冒頭にあるものでありますが、

「学びて時に之を習ふ、亦説(よろこ)ばしからずや」

「朋あり遠方より来る、亦楽しからずや」

「人知らずして慍らず、亦君子ならずや」

という言葉が、論語の冒頭になぜこれがあるのか、私はずっとわからないでいたんですけれど、そもそも「学びて時に之を習ふ、亦説(よろこ)ばしからずや」という言葉の意味でこれがわからないまま、「勉強して時々復習する、喜ばしいな」という標準的な漢文で教えられる和訳が心から納得いくものではなくて、孔子様ともあろう方が勉強して時々復習する、一体どういうことか。そういうふうに思ったりもしていたものであります。

ある時、孔子廟という孔子を祀ったお寺で、論語がびっしりと書かれている壁を見ながら歩いてるときに、はたと思いつきました。それは、「学びて時に之を習ふ」というのは、「学ぶ」ということ、それ自身が、他人から物事を知識として教えてもらう、他人の講義であることもあるでしょうし、あるいは著作物であるということもある。そういうものから勉強する。「学ぶ」という言葉を、そういうふうに使ったときに、これは言ってみれば、受動的な勉強を意味してるわけですね。受動的な勉強をいくらしていても、本当は仕方がない。それは受動的な勉強でしかないからです。

ところが、そういう勉強を継続しているときに、ふと、それはこういうことだったのかというふうに、「知識が内面化する」と私は言うのですが、心の底から納得がいく、はたと膝を打つというような認識の瞬間がやってくることがあります。これが「習う」っていう言葉でありまして、決して他人から勉強を教えてもらうという意味ではない。そうではなくて、自分自身の心の底から、勉強してきたことがどういうことであったのかという意味を納得するということ。これが「習う」っていうことでありまして、learnという言葉、「学ぶ」という言葉一つとってみても、実は奥が意外に深いわけです。

多くの人が学んでいるというふうに思いながら、実は学んでいない。単なる知識を得ているだけということが多いわけですね。孔子様がおっしゃっているのは、「学びて時に之を習ふ」。こういう経験は、本当に勉強している人だったならば、みんなが知っていることでありますが、本当に勉強してる人は実は少ないので、こういうことがわかってる人が少ない。でも、こういう経験というのは、勉強する人の最大の喜びでありますから、何と楽しいことではないかねと。勉強して、時々その意味が本当によくわかる。こんなに楽しいことはないのではないかね。これが冒頭のセリフです。

しかし、そういう勉強の喜びを、全ての人が、孔子も多くの弟子たちに囲まれていたに違いありませんが、そういう人たちがしっかりと理解しているわけではない。多くの人は、書籍で習った、あるいは人に聞いた知識、そういうふうにして得た知識を、さも自分の知識であるかのごとく振り回して終わりになっている。そういうのではない、本当の学習の喜びを知っている人、そんなに多くはないわけですね。その多くはない、本当に友と呼べる人が身近に存在するわけでは必ずしもなくて、時空の隔たりを超えて、そういう人に出会うということ。これはなんと喜ばしいことではないかね。本当に勉強する人の孤独を慰めてくれる。そういう瞬間が、「朋あり遠方より来る」。突然そういう人はとんでもなく遠いところに存在するということがわかる。嬉しいことではないかね。そういうふうにおっしゃってるんだと思うんですね。そういうふうに見ると、「人知らずして慍らず、亦君子ならずや」。周りの人たちが自分のことがわかってくれないと言って、いちいちイライラしない。これは紳士的なことと言わなければなるない。

これが私のつけた下手な訳でありますけれども、learnという言葉、「習う」という言葉には、そういう深い意味があるわけです。「習う」というのは決してやさしいことではなくて、自分自身の思索の努力の末にようやく達成できるか達成できないか、というくらい、非常に難しい目標であると思うんです。そういう目標を達成することは勉強する人の誇りであり、喜びであるんだと思うんです。

勉強することの喜びとか誇りとか、それを教えることが教育だと、私は思っているんですけれども、今の教育は果たしてそういう方向に向かって努力してる、と言っていいでしょうか。むしろ私は反対に、学ぶことをどんどんどんどん遠ざけている。学びというものを、平凡なもの、俗悪なものにおとしめている。そういう方向に向かって、一斉に流れているというような気がして仕方ありません。

ちなみにlearnという言葉は、自動詞であるわけですが、過去分詞learnedという言葉がありまして、learnedっていうのは、勉強したということの過去分詞というよりは、この場合「本当に学習を終えた」という意味で、「教養ある、学識ある」と翻訳するのが一般的な表現ですね。まさに知識を内面化し終えた人に対して、learnedという尊称をいうのだと思います。

日本の学校教育においては、learnっていう言葉の深い意味が教えられていない。learnするということの、孤独な作業、その孤独な作業に耐えて頑張ることの最終的な目標、それが見えていない。そういうような気がして前のようなお話をさせていただきました。

孔子の論語の冒頭、学而篇と言いますが、「学びて時に之を習ふ」の冒頭の部分で、「学而」、学びて而して時っていう言葉、学而と読むんだと思いますが、その冒頭のセリフが、学ぶという言葉を理解する上での一番大切なキーワードである、と私は考えております。ということで、皆様からのメッセージに私なりに答えさせていただきました。

コメント

  1. 中筋智之 より:

    広辞苑に拠ると,他動詞(transitive verb)は,或る客体に作用を及ぼす動詞で,目的語が無いと意味が完結せず,日本語では目的語として多くの場合,助詞「を」を添えて表す.
    自動詞(intr...

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