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今回は教育の嘘ということについて、お話しようと思います。前に「小学校の先生がとんでもないことを教えている」ということが、インターネットで炎上していると耳にして、感じたことについてお話をいたしましたが、小学校の先生方の過ちに対して、こんなにみんなが敏感に反応するのに、なぜ高等学校で多くの人が習っていることそのもの中に巨大な虚偽があるということに、自分自身でどうして気づかないんだろうか。「人の振り見て我が振り直せ」と私達子供の頃、親の世代から口酸っぱく言われたことでありまして、「人の欠点をあげつらう前に、その欠点に気づいたならば、それが自分自身の身の回りにもあるということに気付かなければいけない」という先人の知恵だと思います。その先人の知恵がすっかり忘れ去られている。そのことに、皆さんの注意を引きたいわけです。
もうこれはほんの一例ですが、学校数学で教える数学的な概念は、ほとんど全てと言っていいくらい、それが誤謬、誤り、あるいは誤解、それに基づいているといっていいくらい混乱がひどいわけです。例えば、自然数全体の集合、自然数っていうのは、中学以上では正の整数というふうな言い方をするのかもしれません。$1,2,3,4,5,6,7,8 …$ こういうふうにして、$1$ から始まる整数で、これが限りなく続く。それが物の個数を数えるのに使われたという歴史的な起源から、人間にとって最も自然な数であろうということで、自然数というわけですね。
物の個数を数えるということを数学的に考えると、実は1個もないものの集合の個数を考える、いわば空集合の要素の個数、これも考えに入れた方が話がすっきりいくので、大学以上では自然数っていうのは普通は $0$ 以上つまり $0$ を含めて $0,1,2,3,4…$ これを自然数と呼ぶ。こういう定義の微妙な違いがありますが、それは本質的なことでありません。最初の自然数が $1$ であろうと、$0$ であろうと、それは言葉の規約の問題に過ぎないわけです。
問題は自然数とは何かということの定義がきちっとしないままに、自然数全体の集合というのがあたかも、既知の概念、もう既に知られていて、みんな子供たちがわかっている概念として教科書で説明され、子供たちも理解している。そういう教科書のいい加減の説明でわかった気になっているということ。それを指摘したいわけです。なぜそれがおかしいかっていうと、集合という言葉を使う限りは、集合の要素の間には、要素同士の間で区別されるということ以外の、いかなる区別もあってはならない。要素同士は要素として区別されるというだけであって、要素と要素の間に大小関係があるとか、加法が定義できるとか、そういうような構造と言いますが、それを考えない。
これが集合なのに、自然数全体の集合というときには、$1$ が最小の自然数であると、そして $1$ から始まって $1$ ずつ増えて $2,3,4,5,6,7,8$ という、いわば「順序構造」と大学では言われるもの、「大小関係」という言葉で言われるものは、既に仮定されている。それに対して、更に $+1$ あるいは $+3、+5$ とか、そういう代数的な演算、加法という演算構造、あるいは乗法という演算構造、あるいはその逆演算として、減法、引き算ですね、あるいは除法、こういう演算も考えることができる。考えられない数もあるわけですが、考えることのできるような2数も存在する。そういうような代数的な構造。これも仮定されているわけですね。
そのような構造のないものが集合であって、自然数全体に対してそのような構造を定義していくというふうに、大学以上の数学は始まるわけですが、実はそのような構造があらかじめ仮定されてしまっている。このことは、大学以上の常識からすれば、全くおかしいわけです。しかも、集合の表し方には2通りある。例えば 6 の約数全体の集合、6 の正の約数としましょう。6 の正の約数全体の集合と言うと、それは $1,2,3,6$ と要素を列挙するという形で表すこともできるし、{x:ただしxは 6 の正の約数}と要素の満たすべき条件を明示的に表現することによって、 表現する。条件を指定して、集合を確定する書き方と2通りある。
こういうようなことが書かれているんですが、自然数の集合はどうしたらいいのか。自然数全体の集合は $1,2,3,4,5,…$ こういうふうにして要素を列挙することができるかっていうと、これは永遠に列挙できない。無限にあるからですね。しかも要素の間に順序を考えてはいけないと言ったら、$1,2,3,…$ って小さい順に並べることさえ、本当は許されないはずですね。そうなると、条件として、{x:ただしxは自然数全体}こういうような集合の表現の仕方しかないということになりますが、では、xは自然数という条件、これはどのようにして定義されるのか、というと、自然数の集合を定義する以外にないわけで、これは同語反復、 循環論法って言ってもいいですね。そういう論理的な誤りに必ず舞い戻らざるをえない。そういう論理的な弱点を抱えているわけです。
このことに対して、高等学校の数学の先生は間違っている、こういう話はほとんど出ませんよね。ほとんど出ないのは、私はそれはそれでいいと思うんです。習っているのも教えているのも、高等学校あるいは中学校の生徒や先生、そうであれば、健全な数学がそこを支配していて、全く構わないじゃないかと私は思うんですね。なんで小学校のときだけ、多くの人たちがファイトを燃やして、その数学的な誤謬に対して敏感になるのか。私は、何か些細な過ちを大きく取り上げて大騒ぎをしている無責任な大人たちの行動のように、それが見えて仕方がありません。数学教育といっても、所詮は中等学校、高等学校とか中学校の生徒に対する教育なのですから、そこに数学的な誤り、あるいは論理的な誤謬、それが入っていたといったところで、それを大騒ぎするほどのことはない。健全に数学を勉強するということが期待されている、ということである。
これに対して、非常に残念なのは中学や高等学校の先生方の方が、「数学は厳密で完璧である」と、こういうことを授業中によく言う。「数学において厳密さと完全さ、これが数学の美徳である」ということが、強調された時代があったことは事実です。しかし、20世紀に入って以降、学校数学というのは、言ってみれば、論理的な飛躍だらけである。このことはむしろ当たり前の話で、その当たり前のことをしっかりと自覚した上で、先生は子供たちにしっかりとした基礎を鍛える。子供たちは健全な基礎学力をそれによって鍛える。それが学校に対して期待されていることであるのではないかと思うんですね。高等数学的な厳密さとか、論理的な精緻さ、それが中等教育においても必要であるというわけでは決してない。
しかし、先生方は中等教育の教科書などにおいて、そのような嘘がどうしても紛れ込まざるを得ない、という脆弱性に敏感でいてほしい。そういうふうに願っています。特に、高等学校の検定教科書なんかに書かれている内容、それを自分なりに解釈して、勝手に踏み込んだ解説をしてしまう高等学校や中学の先生が少なくありません。そうなりますと、教科書だったならばギリギリ許されるという過ちを、その限界を大きく踏み出して、はっきりと誤りであると、言わざるを得ない場面に私が立たされることが少なくないんですね。これは私としてはとても辛いことです。先生方は誤っても構いません。でも、子供たちに過ちを強制するということは避けるように努力してほしい。そういうふうに願っているということです。
大学に入っても大学の学部の4年間で行われる教育っていうのは、所詮は健全な数学の感覚に基づいてやっているわけで、例えば集合論にしても、論理学にしても、大学で勉強の数学を勉強してる限りで学ぶ集合論とか論理学は、その専門家の方から見れば、素朴論理学とか素朴集合論と言われるものであります。素朴であるという言葉が付くからといってそれは軽蔑語ではないということ。これに注目してもらいたい。素朴に集合論や素朴に論理学を考える。このこと自身がとても大切なことなんですね。しかし、素朴なレベルでは解決できない問題があるということも、大学の先生ならば知ってなければいけないということで、大学の先生方も、自分の専門のことを勉強するときに、あるいは研究するときに、素朴論理学、素朴集合論に基づいているということは、しばしばそうであるわけで、決して専門の論理学者や専門の集合論学者、そのように考えているというわけではないということです。いろいろなレベルで、数学は論理的に考えるということができる。その「論理的に」という言葉に、いろいろな精緻さのレベルの差があるということを知ってほしい、という私の願いについてお話しいたしました。
コメント
“健全な数学とは何か”
を理解しようと試みましたが、私には全く意味が分からなかったです。
“独力で一歩一歩遠くまで行くしかない”
大人に責任はない。
学ぶ側に、全ての責任がある。
あらゆる学問が、そうであるに違いないと私は考えております。