長岡亮介のよもやま話321「経済についてわかったように喋る人たちを信用しないこと」(病室から)

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 今日は、私もそうですが、皆さんもきっとあんまり得意でないそういう分野の主題について考えてみたいと思います。それは経済の問題です。みんな今ではわかったような顔をして、経済について語りますね。我が国の経済状況は、この30年の失われた期間、そこからの前代未聞の大転換期である。そんなセリフで語られることも多いのですが、史上空前ともいうべき株価の高騰、一方で何十年ぶりかの円安の進行、そして、賃金の低いまま抑えられた状態での物価高騰。とりわけこの物価高騰が、庶民に「日本経済の明日がどうなるんじゃ」という不安をかき立てている一番の原因ではないかと思いますが、今の物価高騰って言われているものが一体何なのか、様々な要因がありますけれど、様々な要因がいろいろあるから物価高騰を一緒くたに論ずることはできない。例えば食料の値段が上がっているのは、ウクライナ戦争、ロシアのウクライナ侵攻に伴う農作物の輸出の規制であって、それは国際的な穀物マーケットの価格で言えば、もう一昨年から高騰していた。ですから、今日本から見るとどんどんどんどん暴騰しているように見えるけれども、実は国際的には当たり前の話である。こういうようなことが平気で言われています。

 しかし果たしてそうでしょうか。私はこの種の議論を聞くと、本当の原因といわゆる現象のきっかけとなる原因、trigger(トリガー)と言いますね、引きがね。それを混乱していると思うんですね。原因はcause(コーズ)ですね、causeとtriggerを区別するということはとても大切なことで、大きなダムが決壊するときに、ダムの最後の最後の決壊に至るときには、雨粒一滴が貯水池に増えただけかもしれない。しかしそれが、ダムの大決壊となるcatastrophe(カタストロフィ)を起こすわけです。雨粒最後の一粒が原因である。こういうふうにもし人が言ったならば、馬鹿げていると、皆さんも思うでしょう。私は今の経済評論家と名乗る人たちの言論を聞いていると、とてもではないけれども、このようなcauseとtriggerの区別がついてない人たちのレベルの議論で、聞くに耐えないと感じるんですね。

 では、私達のような素人の立場から見ても明らかな事実は何か。それは私達がなんと私達の生活に必須の電気、食料、それを全て外国からの輸入に頼って、やってきた。そのことに尽きると思うんですね。膨大な数というより本当に大変な数の液化天然ガスが日本に日々配送され、それを燃やして、燃やして出たときの熱で水蒸気タービンを動かし、それによって発電をして全家庭に配る。電気がなかったら大変なことになりますよね。しかし、その電気を私達は自前で作ることができないでいる。この現実に誰も目を向けてないのではないでしょうか。

 あるいは、私達はご飯を食べなければ生きていけない。当たり前の事実ですね。しかし日本の食料自給率というのはほんの

 そういう生活の基盤たるエネルギーとか食料とかっていうものを全部輸入に頼るということで、いわば産地の分業ですね。いろんなところから仕入れる。そのことによって、日本のいわば家庭の台所を支えてきたのが日本の貿易産業だと思うんです。そういうものに依拠していたこと自身を反省しなければならないのに、今そういう根底的な反省をする人がいませんね。必要なものは自分で作る。自分で作れないものはなくても我慢する。これが人間として当たり前のことであるということを忘れてはいけないと思うんです。

 皆さんは経済学というと、立派な学問で、これが客観的に社会の現象を、特にその貨幣とか価格とか物価とか、そういうものに関する数値を分析するための科学的な装置だという幻想をお持ちの方が多いと思いますが、経済学っていうのは、元々そのような理論的なものとしてできるほど立派なものでありません。元々は世界恐慌というものを防ぐためにどういうことをしたらいいのか。元々はと言いましたけど20世紀に入ってから、そういう議論が中心になってきたわけです。しかしながら、世界恐慌を防ぐということ以前に、今は経済の暴走に伴う暴落、あるいは大混乱をいかにして防ぐかというような、手先の本当に小手先のノウハウに、経済学は貶められている。皆さんの中には、経済学というと“マルクスの資本論”、こういうのがあるじゃないかというふうに思う人がいるんですが、これはとんでもない誤解でありまして、マルクスが書いた資本論Theorie des Kapitalsですが、これには副題がついて、それはKritik der politischen Ökonomie(クリティク・デア・ポリティシャン・オイコノミー)、要するに“国家的な経済学に対する批判”というものなんですね。今で言えば“マクロ経済学批判”と言ってもいいようなものだと私は思っています。

 経済学というのは所詮そういうものでしかない。人間を幸せにするために経済学が役に立つと思っていたら、それはとんでもない幻想である。経済学というのは、今、目の前に、減少する様々な貨幣的な現象について後付けで説明をする。そういう天気予報士みたいな仕事に過ぎないと、私は極論すればそう思うわけです。そういう中にあって、経済の見通しがないと将来が不安だっていう人がいるんですが、私はその人は将来が不安だというのは正しい。みんな将来は不安なんです。その将来の不安をかき消すような安心材料が出てくるはずがない。そういう当たり前の常識に私達は目覚めてもいいんではないでしょうか。そして、必要なものは自分で作る。自分で作れないものは我慢する。

 この言ってみれば、エコノミーというのは本来はギリシャ語のοικονομία(オイコノミア )、家計のやりくりっていう言葉ですね。その言葉から派生しているわけです。私達はまさにオイコノミア、家計のやりくりを真剣に考えなければいけない。そういう時代に生きている。経済学者といういい加減なセリフ、それを鵜呑みにしていても全く意味がないということ。経済学の権威の顔をして出てきた日銀の総裁がいましたけれども、その人たちがやったことが、結局何ものでもなかったっていうことは、もう国民の目の誰の目にも明らかだと思います。だから今こそ、国民は自分で勉強して武装しなければいけない。武装の基本は、「私達の生きていく上での基本。自分に作れるものは自分で作る。自分で作れないものについては我慢する。」それを覚えることではないかと、私は思っています。

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