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経済のような身近な話題がなぜ人々にわかりづらいのか、という問題について取り上げましょう。それは単に、いわゆる経済の世界で使われる言葉が、数学的な指標であるからです。例えば皆さんがよく耳にする「日経平均」という言葉にしても、東京証券取引所に上がっている株価の中で、日経新聞が、これは日本を代表する産業であるというふうにチェックしたものの株価の平均額を日経平均と言ったりしている。平均を取る際に、重みをつけて、つまり株価自身が株券の額面が大きい場合とか、小さい場合、それを同じく、2,500円とか27,000円とか38,000円とか、そういうふうにするのはあまり合理的ではありませんから、それにある重みをつけて、企業の社会的な価値を一般的に代表できるような形にして平均を出す。
その平均を出すときに、いわゆる「重み付け平均」n個の点というのを使いますから、これは数学では初等的な概念ではあると言っても、中学校レベルよりはちょっと超えた高等学校レベルくらいなんですね。高等学校で言うと、二つの線分の間を、m対nに内分する点の座標の公式、そんなふうにして与えられるもの。これが重み付け平均でありますけれども、AとBとが等距離にあるところだといわゆる平均になるわけですね。それに対して、Aからの距離、Bからの距離2対1というところにある内分点っていうのは、Aの重みに対してBの重みを2倍に評価する、Bの方により接近する。そういうBの重みをつけた平均がA対B、あるいは線分ABを2対1に内分する点、ということになるわけです。これを一般にn個の点が与えられたときに、そのn個の点に対してそのような「重み付け平均」というのを考えるっていうことは、数学的には単純なことなんですけど、高等学校のレベルまでやっても、そのような平均についてきちっと勉強しているわけではありませんね。
もう「日経平均」という言葉にしてから、そもそも数学的には難しいわけです。でも、多くの人はその平均が上がったとか下がったとか、それで一喜一憂している。経済について嘆いたり喜んだりしているわけでありますけど、本当のことを言うと平均値そのものに対しては本来意味がない。例えば、小林太郎さんと中村華子さんの体重を2対1に内分する点の体重とか、あるいは2対1内分する点の身長とかいうことに、とりあえず意味がないのと同じような意味で、平均そのものに意味があるわけではない。ですから、いろんな意味で、上手な平均を取るために、いろんな指数インデックスを作るわけですね。東証平均とか、あるいはもっといろいろあるんでしょう。私はそういう具体的なことについては知りませんから、説明は差し控えさせていただきますけれども、そういう概念が、よく言えば経済学的って言うんですけど、要するに小学校算数の延長上にある非常に初等的な概念なんですね。自然数についての四則だけで完結するような世界。
それを理論的にやろうとすると、有理数とか実数の範囲まで考えた数学的な手法を駆使するっていうことが必要になりますが、そのような指標を駆使して、デイ・トレーディングして儲けるというはしたないことをやっているのは、デイ・トレーダーとか言われる人たちで、いわば株式市場という虚構のマーケットの上のいわばバーチャルリアリティみたいなもんですね。そこでのお金の売り買いによって、あたかも利益が生まれたかのような幻想が生まれる。その幻想が独り歩きして、大きな力を持つ。これが日本の、あるいは世界の資本主義経済の、あるいは中国を含む世界の株式市場あるいは金融市場というものの基本的なロジックだと思うんです。
そういうところに乗るには、統計を勉強した人は知っている「箱ひげ図」みたいなものがありますね。その「箱ひげ図」に相当するやつ。バーチャートと言うこともあるそうですが、要するに一つのバー、その上端下端のある幅のある棒でもって、その日の変化のおおよその様子を見ようというものです。株価の変動についてのそのような上り下りの激しいグラフを、皆さんもご覧になったことがあると思いますが、数学的に難しいことをやっているわけではない。小学校の算数の世界にすぎない。そういう小学校の算数の世界が定義されないまま、言葉だけがうろついている。これが、人々が「経済の問題を難しくてようわからん」というふうにおっしゃる大きな原因なんだと思うんですね。それを易しく説明する解説委員みたいな人がいるんですが、訳がわからない話ですね。なぜならば、元々変な概念なのをわかりやすく説明するっていうことによって、何がわかったことになるのか。わからないことがよりわからなくなるというのは本当の正しい説明であるのに、わからないことをわかった気にさせる、そういう説明は、本当にわかりやすい説明ではないと思うんです。
つまり、本質をきちっと理解するために役立つ説明であれば、わかりやすい説明はとても大切ですが、本質をわからせることなく、ただ字面だけわかっている気にさせる。そういう解説っていうのは、言ってみれば、非常に安っぽい塾の手取り足取り授業による指導のわかりやすい講義と一緒で、講義とは言わないんでしょうか、わかりやすい指導というんでしょうか、と一緒で、本当のところ、一人一人が知の世界に対して明るくなったというんではなくてむしろ暗くなっているのに、暗くなっていることに気づかずに、より暗い世界に行ったのに、明るい世界に行った気にさせている。一種の、極端な言葉で言えば詐欺行為のようなものではないかと思うんです。
私は、わかりやすく解説するという表現に非常に抵抗を覚えるのは、数学だってどんなにかわかりやすくしたいと思っても、難しい数学はわかりやすくさせることができないですよね。できないんです。どんなに頑張っても難しいことは難しい。でも難しいことを易しいことだというふうに居座って教えるのは、私は犯罪だと。むしろ難しさを乗り越えるために、どこに難しさがあるのかということに学習者が自ら気づくような、そういう指導であれば、難しさに直面した甲斐があると私は思うんですが、皆さんはいかがお考えでしょうか。わかりやすい解説というものに対して、私達はもっともっと大きな警戒心を持つべきである、というお話でした。
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