長岡亮介のよもやま話309「子どもと大人の違いがあやしい今、若い人に心がけてほしいと願うこと」(2024/3/29)

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 大人になるとはどういうことか。子供であるとはどういうことか。という自明とも思える問題について、ちょっと考えてみたいと思います。というのも、もうあと何回も続くかどうかわからないこのよもやま話において、ぜひとも言っておかなければならないと思うこと。特に若い人に向けて、大人のふりをしてはいけないということ、これを伝えておかなければと思って、このお話をすることにいたしました。

 私は、子供と大人との決定的な差は、人生経験の濃さ、あるいは長さ、濃さと長さをかけたところの重さというふうに、言った方がいいかもしれません。濃密な人生経験を長く積んでいる。その人たちの人生における重い経験、このことから発するところの言葉には、多くの人が耳を傾けなければならない重要なレッスンが隠されているのではないか。普通はそう思います。大人は子供に比べれば、遥かに長い人生を生きてきているわけですから、その中で多くの経験を積んでいる。その経験を積むことによって、事柄の判断についてより正しくできる。そういうふうに一般に期待されます。しかしながら、皆さんよくご存知の通り、大人の中でも大人の模範たるべき立場の人、いわゆる偉い人って言われる人、中でも政治家がとんでもなくだらしない。政治的な決断ができない。あるいは自分の言葉でもって喋ることができない。人が書いたものをそのまま読んでいるだけ。そして、言ってみれば自分を持ち上げてくれる人の票が欲しいだけ。

 民主主義社会というのは、そういうリーダーがポピュリストになりがちである。こういう危険を持っているわけで、今世界の民主主義といわれる国家あるいは民主主義を標榜する国家において、その投票が十分に配慮されたものであるか、人生の経験を積み重ねてきた人だけができる正しい判断の結果となっているかどうか。そういうことを考えると、非常に情けない思いをするわけですね。我が国だけではなく、多くの先進国において、選挙が言ってみれば、ポピュリズム、大衆迎合主義に汚染されている。大衆は当然自分たちの欲望あるいは自分たちの要求に沿って、政治を動かしたいに決まっている。大衆は、一般の人々というのは、他人のために自分の生活を犠牲にするということを、一番良いことだとは考えないものだということですね。愚かなという形容詞がしばしばつきますが、大衆は大衆のように動いてしまうものであるということです。

 つまり、大衆が本当に懸命になれば、その大衆の指導者も当然懸命な人になるはずでありますが、残念ながら大衆はそのままの形では立派とはいえない。愚かと言った方が良い選択をすることが多いわけです。そして、大衆がそういう政治的な指導者を選ぶとかっていう選挙という場面で、必ずしも賢明に行動するわけではないということ。それは、残念ながら現代においては、いわば多くの世界で常識のようになってしまっている。ということは、実は大人と言っても大したものではない。自分たちの小賢しい利益のために動いているだけであるということです。ですから、若いということは、十分経験を積んでいない。したがって、正しい判断ができない。だから、青二才と言われるわけですが、青二才を脱した人たちが、それを超えたはずの人たちが、青二才以下あるいは青二才未満といった方がいいかもしれません。そういう判断しかできていないという現状。

 これは決して、こんにちの現状だけではなくて、例えば私達の国であれば、太平洋戦争に負ける前の我が国のたどってきた社会の歴史をたどると、それは一部の軍国主義を推進した人々たちの個人的な責任とすることができるかというと、そういう人たちの声に乗って、自分たちが自ら率先して軍国主義を推進してきた。そういう歴史を見つめなければならないわけですね。そしてその結果、私達は本当は失わずに結んだ命をものすごく多く失っている。そういう歴史をつい最近経験しているわけです。私達は全然そのときから大人たちも賢くなっていない。そのときの反省を本当に今に生かすというだけの、深い叡智を備えるどころか、むしろ最近の中年層の人たちの政治意識を聞くと、およそ歴史や哲学を勉強したことのない人々の実に青臭い意見が堂々と出ている有様であると思うんですね。そして、そういう人たちに限って、自分の責任は棚に上げて、人がちょっとでもしたちょっとつまらない責任、それを追求する。

 私に言わせれば、政治の中枢からして腐っているわけですから、その末端にいる代議士達の少々のお金の不正などというので、いつまでたっても騒ぎ立てているというのは、実に馬鹿げたこと。むしろ、「国家的な財政の危機、それをどのようにして乗り切るのか。国民につらい言葉をどういうふうにして伝えなければいけないのか。そのために政治家はどういう責任を持つのか」といった一番大切な議論のために、私だったらテレビの放映時間の半分は割いてもいいと思うのですが、そういうことに関心がある大人たちが少ないということが、実に馬鹿馬鹿しいと言うしかない現在のマスメディアの報道ぶりが証明しているんではないか、と思うんです。つまり、大人たちが大人たちとしての十分な重い経験に基づく重い配慮をしていない。ふわふわとした付和雷同、はやり言葉に乗るということしか考えていないということです。誠に残念ですね。

 私はもう皆さんにはばれていると思いますが、流行を追っかけるのは決して嫌いな方ではない。人工知能と言われるもの、これが今日のように日常的な言葉になる前から、私は人工知能の未来というものについて、大きな可能性を感じてきたんですが、最近の人工知能と言われているものは、少なくとも表層で見る限りで言えば、実に馬鹿馬鹿しい話でありまして、生成AIの作る文書に関して言えば、真にバランスが取れているけれども、恐ろしく下手な文章で、とても三流の文筆家にもかなわない。そういうレベルであると思うのですが、三流の文筆家にもかなわない人たちが、生成AIの作った文章を聞いて、これは使い物になるというふうに感じているんだと思うんですね。人々が自分で文章を推敲し、自分で文章を創作する。そういう人間として、あるいは成人として、日々自らに課して当たり前のことを今の現代人は行っていない。携帯電話で文字を入力するのさえ面倒くさくて、自分の気分を表現する図案、スタンプというそうですが、そういうものを自ら購入までしてやっている。馬鹿げた話ですね。

 こういう大人たちの姿を見て、それを模範として若者が生きていったら、若者は本当に愚かな大人にしかなり得ない。若者が持っている初々しい批判精神、初々しい理想主義。それは大人たちから見れば、「まだ君は未経験だから判断が青いね。」そういうふうに言われたものでありました。しかし、若者の青い判断、青臭い判断、未熟な判断。それを批判するだけの力が、大人たちの世界にあるのか。そういうふうに考えると、私は今の若者に大人たちを見習って欲しいと思えないんですね。若者が若者らしく、多少無責任であっても構わない。でも、自分なりに責任を持って行動するということを奨励したい。「そんなことをやっていると、君は人生の敗残者になるよ。」「人生の勝ち組には入れないよ。」そんな大人たちのアドバイスがもしあったならば、そんなものを蹴り飛ばす人であってほしい。

 結局のところ、「大人と子供との大きな違いは、経験の有無である」と私は最初に言いましたけれど、そうではなくて、結局長い経験を通じて、大人たちは自己弁護をするという術に長けただけであって、責任を取るということが青年以上にできていない。青年より青臭い、青年よりみっともない、青年よりだらしない、そういう大人たちが溢れかえっている。私はそういうふうに思うんです。そうであるならば、大人を見習うのではなく、青年たちが青年たち自身の責任と自覚を持って、自分たちの未来を自分たちで自ら切り開く。そういう意思を強く持つことが大切ではないかと思うんですね。

 私は、遠くにいる青年に向けて、時代的に時間を超えてメッセージを送る。そういう意味では中国の昔の言葉を使って「檄を飛ばす。」これを未だに誤解して激励しに行くと思っている人がいるんですが、そうではないんですね。「正義のためにともに戦おうではないか」という手紙を「檄文」と言うんですが、その檄文を地方に向かって飛ばす。飛脚とか馬とかという手段を使って、手紙を遠くに届ける。これを「檄を飛ばす」というわけですが、まさに時間を超えて若い世代の人に、「今大変なことなので、皆さんが立ち上がらなければいけないんだ」と、そういう気持ちの檄文をしたためる気持ちで、このメッセージを残しています。責任を持つこと。このことが、実は大人として、一人前の人間として生きる当たり前のことなんです。そして、責任を取ることができるために、当然のことながら基本的な教養がなくては話になりません。自分の頭のハエも追えない人間が、他人のことを非難する。これは昔から日本で、無責任な人間を嘲笑するときに言われた表現でした。そのようなことがあってはならない。まず自分自身のことについて責任を持つということ。これはとても大切ですよね。それと同時に、自分たちの友達、仲間、同世代人に対して責任を持つ。あるいは自分たちより後の世代に対して責任を持つということ。これがとても大切だと思います。

 「責任感こそ、人間をして人間たらしむる、一番の要のvirtue」、昔の人は「人徳」っていうふうに訳しましたけど、その徳という言葉がちょっと最近では「道徳」とか奇妙な使われ方するので、私が人の倫というふうに「人倫」という言葉を使いたいと思いますが、責任を持つということが何より大切なことであるということです。自分の発言に責任を持つ。自分の行動に責任を持つ。そしてそのことを通じて、他人の行動に対して、同僚の行動に対して、責任を持つということ。責任というのは、「あいつがあんなことやったんだよ」と言いつけて、権力の側にそれを垂れ込む。そういうことで責任が果たせるとすれば、とんでもない話ですね。それは権力に対する迎合者、追従者として最も恥ずべき存在です。そうではなくて、権力からの弾圧に対して戦っている人の側に立って、責任を持って行動するということではないかと思います。ぜひ、若い人に責任を持って生きるということの誇りと、喜びと、苦しさ、それを共有していっていただきたいと願っています。

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