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このよもやま話もしばらくして休載ということになるかもしれませんので、最後に近づいているということを意識して、今回は「私がなぜ教育を大切に考えているのか」ということについて、ぜひ皆さんに聞いていただきたいと思うことをお話します。
私はなぜ教育が大切だと思うか。それは、私は、「人間は教育を通じてこそ、自分自身の新しい可能性を切り開く機会を与えてもらえるからである」と、答えたいと思うんです。私自身が、そういう可能性に教育を通じて切り開かれた。そういうふうに思ったのは、学校教育あるいは大学教育、大学院を全部終えて、ずいぶん年をとってからです。反対に言うと、私は、「自分が子供時代小学校に通い毎日毎日を楽しく過ごし、中学高校時代いわゆる定期試験対策というものを経験し、大学に入ってより本格的な専門家の話を聞くという機会に多く恵まれ、そして、やがて自分自身がそのような専門家として話をしなければならないという職業に就き」、という体験をしてまいりましたけれども、その中で、自分にとって学校とは何であったのか、ということを考えると、私は、奇跡の連続と言っていいような、そういう出会いの場であったと思うんです。もちろん友達との出会いも学年が進むにつれて大切なものになりますが、小学校の頃優れた友人と出会ったということも決して否定はしませんが、しかしそれよりは素晴らしい先生との出会い、あるいはつまらない先生との出会い、これが私の人生のその後を決定づけたと思ってくださっても結構だと思うくらい、それは重要なものでした。素晴らしい先生との出会いの素晴らしさというのが、何であるかというふうに聞かれると、それを上手に答えることができません。
私が今語っているのは私が小学校1年生から小学校4年生まで4年間連続して担任をしてくださった藤田至先生という先生。そういう素晴らしい先生がいらした。私は昭和22年7月生まれでありますから、いわゆる日本の敗戦、昭和20年の8月それから2年して生まれてきているわけです。その子供が6歳になったときというのは、敗戦から8年経っているということですね。そのときに私は小学校に入りましたけど、そのときに大学を出たての本当に教育の理想に燃えた若い先生と出会ったわけです。考えてみると、その先生もおそらく戦時中ずいぶんつらい中学生あるいは高校生の時代を過ごしたでしょうけれども、おそらくは旧制新制入り混じった段階で、学制が変更されたときに信州大学教育学部というところに進んで、戦後の民主主義を育てる若者を子供のうちから鍛えたいと、そういう希望を持って専門に進んだと思うんですね。その頃は経済が活性を取り戻しつつ時代でありましたので、有用な人材は産業界から大変に求められている。従って教育に行くような人というのは、どちらかというと産業界では相手にされない人である、と陰口を叩く大人がいましたけれども、私は「この大人は一体何を言ってんだ。世の中の目の前にある真実に目を背けている。それが全然見えていない」と、そういう大人たちの姿に、私は腹を立てたものでありました。私の両親も幸いにしてそれほど愚かな人ではなく、私の敬愛する藤田至先生のことを、「藤田先生はあなたにとって生涯の恩人である。あなたにとって親よりも大切な人である」って、そういうふうに言ってくれて、私が藤田先生を慕い続けることを決して妨害しませんでした。本当に親にもそういう意味で感謝しなければいけないと思いますが、私は親に感謝するというような道徳観が生きている時代に幼少期を過ごしながらも、親は自分への感謝というのを求めるタイプの人ではなく、むしろ戦後の軍国主義的な家父長制に批判的な意見を持っていたのでしょう、口では言いませんでしたけれど、親を敬えというようなことは一言も私には言いませんでした。「親にとって最も非礼なこと、親不孝なこと、それは親より先に死ぬことである。だからどうか元気で生きてくれ。」これが繰り返し繰り返し私が母から聞かされたことでありまして、私は今では信じられないくらい子供の頃病弱であったので、母はいつ私が死んでしまうか不安で仕方がなかったのでありましょう。しばしばそのように言っていました。その私が、小学校に本当に喜んで登校する姿を見て、きっと母も嬉しかったんだと思います。
そして、なぜ私は藤田先生のことがそんなに好きだったのかというと、全てのことが藤田先生においては素晴らしく見えたんですね。藤田先生が黒板に書く字は誰よりも上手で、藤田先生が黒板に書く日本地図は誰よりも美しくて、藤田先生が教えてくださる計算は誰よりも真理をついていて。といっても私は具体的な授業の光景を覚えているわけではありません。小学校でありますから、私達は「単位」というものについて理解するっていうことも、勉強の一つの課題だったんだと思いますが、私は多くの小学生時代、「単位」が嫌いだという友達の話を聞くと、あんなもの機械的な計算の公式を覚えているだけだったら本当につまらないだろうなと私は思います。というのも、私自身がどういう教育を受けてきたかというと、藤田至先生は私達を近くの川に連れて行った。今だったら川で遊ぶなどというのは、親がキャーキャー言うようなことかもしれませんね。子供が水難事故に遭ったら誰の責任になるんだと。藤田至先生は「もしそんな声があったら責任はもちろん自分にあります。責任は全て私にあります」というふうに言ってのけたと思います。藤田先生は責任を恐れる人ではありませんでした。「全て自分で責任を被るから、勉強のことは私に任せてくれ」、そういうふうに親たちに向かって言い放ったという英雄話を、後になってから聞きました。本当にすごいことですね。親たちに向かって、「勉強のことはどうなっているんだ」とがなり立てる無教養の母親たちもいたに違いありません。「うちの子はこれで、長野市ですと北高っていうのがあるんですが、長野第1高等学校、そんなことで1高に入れるんですか。そんなことで東大に行けるんですか」と、そんなことを言った愚かな母親たちがいたんだと思います。しかし藤田先生はそんなことでは全く動じなかった。「勉強のことは私に任せてください。お母さんたちはお子さんの健康問題を心配してください。」そういうふうに言い放った。すごく立派な態度ですね。「勉強のこと私に任せてください」っていうことは、「私の言ってることを子供たちは100%信じていいんだ」ということです。そして私達は、特に私はそうなんですが、「藤田先生の言うことは全部正しい。全部かっこいい、全部美しい」と、そういうふうに思っていました。
藤田至先生の単位系についての勉強は、例えば、面積の単位を教えるときには、校庭とか、あるいは体育館に連れて行った。体育館に連れて行って、巻尺で10mの距離というのはどんなものか、子供たちに理解させ、その10mを1辺とする正方形を、体育館の中であれば簡単に書けますね。そして、10mを1辺とする正方形でもって、面積の単位である1アールというのができるんだと。そして、校庭に連れて行って、巻き尺で100mという単位を図り、その100mを1辺とする正方形の中には、10mを正方形とする小さな正方形が何個できるか。子供たちに考えさせ、ちょうど100個できる。それでもって100アールというんだと。しかし100アールというよりは、それをもっと簡単にヘクタールと言うと便利だ。そういう単位を取ることの面白さっていうのを教えてくれたんですね。
重さに対しては、1グラムというのを教室の天秤ばかりのようなもので測らせて、本当にグラムというのは軽いものであると。私達の時代にはまだ尺貫法が生きていまして、体重計なんかは1貫2貫3貫というふうに測ったものでありました。私はまだ子供でしたから、10貫という体重は子供にとって大きな目標なんですね。100貫なんていったらもう大変なことであるわけです。10貫の体重になるということが人生の夢になるくらい、貫というものが生活に根付いておりましたが、学校で教えるときにはメートル法で、グラムっていうのを基本とするものを教えられていました。しかしグラムというのは、生活実感からすれば、薬とかなんかでは正しく使えるかもしれませんけども、やはり生活実感があんまりない。私たちは、長野市に裾花川という、千曲川という大きな川の支流が流れているんですが、裾花川に連れて行って、そこで河原で、この中で1kgに一番近い石とか、2kgに一番近い石、それを探す競争しよう。そういうふうに教えてくれました。その競争をする前に1kgというのはどんな重さであるかということを子供たちに体感させて、その基準器の重さを体感して、それに一番近いものを選んだ人が一等賞だとか言って、子供をけしかけ、そして子供たちは競って1kgに近い石を一生懸命探し、「藤田先生これ見つけた。これがきっと近い」そんなふうに遊びました。そんなときに、水難事故があったらどうするか、とそんなこと言う父兄は当時あんまりいなかったと思います。そういう川で、当然のことながら学校の授業はそっちのけで、石をひっくり返してその下にいる魚やあるいは虫を狙う。そういう遊びに夢中になる。そういう人もいました。本当のこと言うと私もその1人でありましたけど、そういうことを含めて、「実感するということ。自分自身で判断する」っていうこと。そのことの大切さっていうのを教えてもらったように思うんですね。
今の学校は聞くところによると、みんなで話し合うっていうのがすごく重視されているそうですが、しかしわからない者同士が話し合うということによって、混乱はむしろ深まるばかりなのではないでしょうか。聖書にもある言葉ですが、「目が不自由な人が、目が不自由な人の道案内をしてはいけない」ということがあります。「わからない者が寄せ集まって、話し合って、答えが出る」というくらい民主主義の誤った教育はないわけで、その時代に実は空疎な民主主義教育の掛け声があったに違いありませんでしたけれど、藤田至先生はそのような「教室民主主義」というものを全く採用していませんでした。教室においては、藤田至先生はいわば唯一の知性を持った聖人のような別格の存在でありまして、藤田先生が言うんだからということで、全ての子供たちは納得していたんだと思います。そして、その藤田至先生を通じて、私達子供は「物事を考えること。物事がわかるようになるということ。わかったというときの大きな喜びがどれほど大きなものであるかということ。」そういうことを本当に心の底から学んだと思うんです。どういうふうにして教わったか、私はわかっていません。
でも確かなことは、私はそれによって勉強が得意な子どもではありませんでしたけど、勉強は大好きな子どもになりました。勉強が好きと言っても、藤田先生と一緒に勉強するのが好きなだけで、夏休みとか冬休みは遊んでばっかりいますが、それはそれでまた楽しいんですが、夏休み冬休みに出される宿題は大嫌いでした。特に絵日記のようなものはもう私は大嫌いでありまして、最初の3日間くらい付け、やがてつけるであろうとまとめてつけようというようなサボりモードになり、そして夏休みが終わる頃になって突然焦って途中を埋めるという作業をすると、絶望的な気持ちになる。もう何の記憶も残っていない。絵日記もくそもない。そういう状況になりまして、夏休みが大好きなのに、夏休みの宿題である日記は嫌だなと、そういうふうに思ったものでありました。今の子供にもおそらく私と同じように学校で課される課題は好きでないっていう子どもが少なくないと思うんです。私もそれほど絵日記とか宿題が嫌いでしたけど、藤田先生と一緒だったならば、私は嬉々としてそれに取り組んだに違いないと思うんです。そのくらい藤田至先生は私にとってある意味で恋人以上の存在だったんですね。
学問とか真理とか愛とか、そういう崇高な価値を体現する人であったわけです。そういう藤田至先生のような偉大な先生に出会えたことの幸運。これを社会的に少しでも恩返ししていかなければならないと私は痛感しています。このような間接的な媒体を通じて、皆さんに私の真に偽らざる心情を吐露するという、まるで私小説のような話をさせていただいたのも、私をこのように動機づけているものが何であるかということも語っておかなくてはならない、と思ったからです。少しでも皆様の人生に参考になるようであれば、藤田至先生に対するご恩を、百分の一、千分の一でもお返ししたことになるのではないかと願っています。
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