長岡亮介のよもやま話247「民放の目的は?」

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 最近この年になって、“深堀り”という言葉が流行していることを知りました。深く掘る。例えば、金の鉱脈を見つけるのに、あるいは石油・原油を見つけるのに深く掘る。これは、一番基本的な作業ですよね。浅いところにあるだけではなく、深いところにある鉱脈、あるいは油田を見つける。非常に重要なことだと思いますが、深く掘ったからといって、そこに本物があるわけではない。探し物が見つかるわけではないということは常識だと思うのですが、「深掘りする」というふうに言うと、何か事柄の本質に迫る、つまり深く理解するという、いわば学問的・哲学的・科学的理解、それを連想する言葉になっているのではないかと思うんです。

 しかるに、「ニュースを深掘りする」ということは、どういうことを意味するのでしょうか。私は、表面に流れる時事ネタのような物、その背景に潜む真実の姿、あるいはその現象を持って来たらすその所以、その根拠に迫る分析であるならば、大変に興味深いことだと思います。しかし、深堀りとかいう言葉をうたい文句にしている民放の放送局の報道内容は、それはそれはひどいもので、表層の事柄について、本当に表層に分析している。分析するというよりは都合よく解釈している。都合の良い解釈ができないとき、アナウンサーが専門家と言われる人たちに、「この点についてはどうですかね」って言うと、専門家の人も専門家としてそれに答えるわけにいきませんから、「自分は専門でないから、そのことについては何とも言えませんが」と言いながら、アナウンサーが期待するような答えを言う。これでは深堀りでも何でもない。ただの予想屋でしかないわけですね。私は今、民放という言葉を使いました。本当は、民放に代わる公共放送という立派な放送機関が、日本にもイギリスと同様にあるわけですが、イギリスUnited KingdomにおけるBBCの番組と比べると、我が国の公共放送のレベルというのは、誠に情けない水準であると思います。それはニュース一つとってみてもそうなのですが、ドラマのような大衆的なものを見ても、その差をひしひしと感じざるを得ない。日本はBBCを真似してNHKを作ったんだと思いますけど、差は開くばかりであると感じています。

 一般に放送を民放に委ねるというのは、どういうことなんでしょうかね。アメリカのように、民放がものすごく大きな力を持ち、民放局しかない。政府は放送に対して関与しない。こういう立場を貫くというのは、アメリカ的な自由主義の精神なんだと思うんです。政府がいちいち介入しないってことですね。日本においても、United Kingdomイギリスにおいても、政府が介入するというのではなく、それは公共放送であるということであって、受信料というのを国民から集めることによって、税金によってではなく、運営する。これが言ってみれば、放送の理想であるわけですが、その理想を貫いているのは北欧の国々だけでありまして、BBCも日本のNHKも政府負担で成り立っているわけですね。その政府負担で作っているわけですから、その放送が政府寄りになる、あるいは政府に気兼ねしたものになるということは、ある意味で必然的であるわけです。もっと言えば、民送は金儲けのために放送しているわけですから、みんなのために放送しているんではない。自分たちがお金を儲けるために放送しているわけですから、お金を儲けるために合理的であること。つまり、スポンサーがより集まり、よりお金を多く出してくれる、そういう放送することが民放としての使命であるわけですね。民放がそのような番組を作るということは、要するに大衆が喜ぶ、視聴率が上がる番組ということです。国民のレベルが低ければ、その低いレベルに合わせた放送をする。そういうことでもって、民放はお金を稼いでいるわけです。それも、国際的に見て日本の民放は信じられないくらいの巨大な利益を上げています。一般にデジタル放送とか、あるいはインターネット放送が普及しようとしたときに、日本のキー局と言われる民放の主要局も、おそらく1社を除いては潰れるだろうと、みんな言っておりましたが、そのようにはなりませんでした。国民がまさに広告会社に踊らされるということを喜ぶ。そういう道を選んだからであります。

 私達は民放の放送を見るときに、それが深掘りというふうに名づけようが何としようが、要するにそれは「売らんかな。売れれば良い。人々がそれに飛びつけば良い」という基本的な発想から決して自由にはなっていない。スポンサーがつかなくても断固としてこの放送をする。そういうような気骨のある放送局があれば、それはそれで私は寄付したいくらいであります。公共放送と言われているものに寄付するという、寄付っていう強制的にされているわけですが、それするよりは、自分の思う民放局に寄付したい。そういうふうに思います。日本は寄付文化がなかなか根付かない。一旦アメリカから輸入してきたNPOという、寄付を募ることによって事業を支援する制度も日本に導入されたばかりのときにはアメリカのNPO法とそっくりだったんですが、最近では日本型の特定非営利活動促進法という法律のもとで、アメリカのNPOとは似ても似つかぬ、そういうものになりつつあります。これは誠に残念なことであり、またある意味で日本の国税、財務省の管理する財政の厳しさを反映したものであり、日本の国民全体の問題であるわけです。これについては、詳しくはデータに基づいてお話しなければならないことでありますので、ここでは本当に簡略な結論だけを申し上げますけれども、私自身は、むしろ「受信料を払う。受信料を強制的に払う」というシステムから、「寄付をする。自分の好ましいと思う放送局に対して自分のお金を寄付する。」その寄付によって成り立つというのが本当は最も健全なのではないかというふうに思います。韓国のように一部広告を取るとか、そういうような方法もあるかと思いますが、その広告に対しても、当然その商品広告ではなくて、広告主に対してある種の制約を設ける。そういうような工夫がいろいろとなされていると聞いています。政府のお金とそれから寄付、それをどういうふうに配分するか、これは非常に難しい問題であると思いますが、やはり基本的に広告料だけで運営されている放送局というのは、基本的には駄目なんだと思います。アメリカの場合、健全なのはやはり寄付金が大きな割合を占めるということですね。有名なPBSであるとか、あるいはCPBであるとか、そういうアメリカの放送局が、公共放送でありながら教育放送を主たる目的としているので、基金が集まるということですね。

 政府が主導して放送するところはとんでもないことでありまして、そういう政府の御用機関となってしまっているテレビ局がある国、私達の近隣にも存在しているわけですが、そういうのは放送の名に値しない。政府の広告機関に過ぎないということです。日本の放送局がそこまで落ちているとは言いませんが、日本は、政府の顔色を伺いながら重要なニュースを述べ、そして政府の顔色がどうでも良いという場面、例えばドラマとかお茶の間のバラエティー番組というくだらない番組においては、もはや民放以下のレベル水準の放送に堕落しているわけですね。NHKをぶっ壊す党という政党がそれなりに躍進しているそうですが、私は彼らの政治的な主張があまりにも貧困なのでそれを支持したいとは思いませんが、NHKを潰すというアイディア自身には賛同せざるを得ないという気持ちになっています。しかし、NHKを潰して全部民放にすれば良いというふうには全く思えない。むしろ、「公共放送を充実させる。そして人々の声を代弁するようになる。あるいは人々をより明るい知に導く。」そういう公共放送、公共のためになる放送局となるということを、心から祈って願っているわけです。全てが民放化されるということは、最も恐ろしいことだということ。これを忘れないようにしたいと思います。

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