長岡亮介のよもやま話248「我が身を三省す」

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 論語に、「師曰く吾日に我が身を三省す」という言葉があります。曾子先生が、1日に自らのことを「三省す」というのは三回反省するという意味ではなく、度々反省する、三度ならずという意味で、三という言葉が使われているんだと、子どもの頃習いました。きっとそうに違いないと思います。朝昼晩3回食事をするという意味での3回と、「三省す」という3が同じ意味であるはずはないですよね。3という数は非常に不思議な数で、普通に考えれば1,2,3,4,5,6っていうふうに並んでいる、いわゆる正の整数のうちの3番目というふうに過ぎないんですが、2というのは1と決定的に違って複数であるのに対して、3というのは2以上の複数形というのの中に一緒くたに含まれていて、あまり大して意味を持ってないと見られがちです。

 しかしながら3という数にはいろいろと不思議な性質が備わっているように思います。ビジネストークでよく習うレッスンのようですが、「言いたいことが三つあります。あるいは質問が三つあります。」こういうふうに三つというのを言って始めるというのが、人を引きつけることであるというわざとらしい話もありますけれども、そうではなくて、三つというのは、一つでもない二つでもない、そして四つ以降でもない、非常に特殊な複数形であるということです。どういうことかっていうと、一つというだけでは、「1人の人間が存在する。1人の人間が考える。1人で人間が反省する」ということであればその人だけで完結してしまうわけですね。この1人の人は完全な人であればともかく、そうでない。一般の過ちを犯す人間であれば、1人だけで全部をやるっていうことは不可能ですね。では2人だったらどうか。「2人で話し合って決めればいい。」最近の小学校ではそういうことを教えるようですが、2人で話し合って決めること。それが、難しいということは、2人の間の対立が決定的な場面を迎えるということを知っている人は、誰でも常識でわかっていると思います。二つというのはある意味で矛盾の始まりであって、調和の始まりではないということですね。二つのものの間で合意を形成するというのは、実は容易でないことであるわけです。

 それに対して、3個、三つ、3者、3に何でもいいんですけども、その三つのものが互いに互いを牽制するという力が働くときに、非常に面白いことに、じゃんけんが典型的でありますが、決定的な勝者がいるわけではない。紙は石に勝つけれども、ハサミに負ける。石はハサミに勝けれども紙に負ける。そういう三すくみの構造というのがあります。私は三すくみというのは、日本では巴投げっていう巴という字に現れていますが、三つ巴というやつですね。非常に深い人類の英知が結晶してるように思います。韓国では、陰陽五行説の陰陽から来ている陰と陽の二つの対立ということで、国旗にもその絵が描かれていますが、やはり私は二つよりは三つの方が面白い。そして、じゃんけんのように絶対的な勝者がいるわけではないというルールのもとで、三つであれば三つ巴じゃんけんありますが、それを昔四つとか五つにしたときに、どんなじゃんけんのルールができるか、考えたことがあるのですが、すごく面倒なんですね。三つという数は、そのような複雑な巴合戦、スーパーパワーの存在を互いに牽制し合って、健全に運営する。そのための最小の数であり、それにして、三権分立に象徴されるように非常に巧みに運営することができるわけです。もしその運用が正しく行われればの話ですけれど。残念ながら日本のように、立法府以上に行政府の力が強くなる。それも行政自身の力が強いというよりは、議員立法制ということなんでしょうか、立法府によって内閣が組織され、内閣によって行政の長が任命される。そういう仕組みが日本ではあまりうまく働いていると思えない。もっと立派な人が行政マンとして活躍しなければいけないのに、その立派な行政マンが本当にろくでもない立法府の議員たちにヘコヘコしなければならない。そういう状況が生まれている。そういう状況を作ったのは、長い間政権を担ってきた自民党ではなくて、非常に短い間政権を握った野党であったわけですけれども、非常に見識のない行政改革を指導したものだと今思われます。

 ところで、今私がお話したいと思ったのは、3という数の持っている不思議さ。その3という言葉の持っている不思議さは、決して単なる3にとどまるのではなくて、そこから限りなく広く広がっていく。そういう意味を持っている。1,2,3,そして無限大という気運でありますね。3という数はその無限大に向かって人類が想像の翼を広げる、その最初の出発点であると言っても過言でないでしょう。そういう大切な3という数を曾子が、「日に我が身を三省す」というふうに使ったのは、とても象徴的ではないかと思います。曾子様のような大先生であっても、自分のことを度々省みて反省する。そのことが必須であるということを述べているわけであります。有名なフレーズですから、正確なところはぜひ論語なり、あるいは最近ではインターネットで簡単にそれが手に入りますから、その前後関係をお読みになってください。非常に深い叡智が込められていることを皆さんが感じられることだと思います。ところで、曾子ならぬ凡人の我らは本当に三省するどころか、本当にずっと反省し続けなければならないくらいどうしようもない存在だと思うのですが、その中で最も私達が陥りやすい間違いは何か。それは「自分のちょっとした工夫、ちょっとした思いつき、それが宇宙を貫いている、あるいは時間を貫いて、普遍的に成り立つ真理である」と思い込んでしまうことですね。日本人の中には、「そんな大それたことは考えない。自分が生きている間、良ければそれでいいんだ」と、小さくまとめようとする人がいるかもしれませんが、逆にその人たちは自分の儚い人生を、まるで古い古い歴史を持つ宇宙の歴史、そして広大な宇宙の空間の広がりの中で、ちっぽけな存在である自分の存在を全体と同一視しているという、とんでもない過ちを犯してるわけですから、話にならないと言うべきでしょう。

 私がここで申し上げたいことは、私達が非常に卑小な存在であって、しばしは過ちを犯す。その過ちを犯す中に、私達が思い違いをするという間違い。自分でも言われてみたらはっと気がつくくらい簡単な間違いを、頻繁に犯すということですね。私はおっちょこちょいなので、その傾向が他の人よりも強いのかもしれません。自分がそう思い込んだらもう命がけっていうか、それが絶対正しいと思って突き進んでしまう。自分の思い込みに対して自信を持って邁進する。これ自身は決して悪いことではないんですけど、それが間違いであるかもしれないという心の余裕というか、自分の人生あるいは自分の判断の限界に対する強い自意識といったらいいんでしょうか、そういう自覚。それが私達は、ともすれば忘れがちであるということですね。私達は、曾子様でないのですから、本当に「吾日に我が身を三省す。」曾子様がそうおっしゃった、その言葉を受けて、何回も何回も反省すべきであるわけです。私の言っていることに、表現だけまともそうであって、実はその表現に隠れている他の可能性を考慮することがなかったか。人にものを教えているつもりでありながら、自分がわかっていないということに自覚が十分でなかったのではないかとかというようなことです。具体的には、論語を読んでいただきたいと思いますが、私はともかく、思い込んだら命がけという方のタイプの人間でありますので、それだけにその思い込みによる間違いに対して常に謙虚でなければならないという、曾子様の教えをできるだけしっかりと守っていかなければならないと思っています。

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