長岡亮介のよもやま話466「学校教育の目標と学問的基盤の形成の難しさ」

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⏰木曜日 2025.08.21 09:52 · 5mins

学校教育の難しさは、一般には多くの複数の若い生徒を集めた一斉事業を標準的な活動のスタイルとしていることにあります。言い換えれば、先ほどのお話の中で、「大学以上に通用する学問的基盤の基本部分を形成する」ということを教育の理念に置くとすれば、当然直ちに全ての生徒が学問を志すわけではない、という反論が聞こえてきそうです。

確かに学問的なことをやる人間は、大学に入学した学生のうちのほんの一握りでしかない。そういうことを考えるならば、「学問的な活動の基盤の形成」、これを学校教育の目標とするということ自身が、成り立たないことになります。つまり、学校教育では、「多くの生徒がそれぞれの人生の目標を達成するのに役立つことを提供する」ということで、いわば個人を否定した無個人というか、あるいは生徒全体というか。個々人のいない全体というのは、言ってみれば全体主義的な個人と言ってもいいわけですが、そういう個人を前提として業経営がなされる、というところに大きな特徴があるわけです。

言ってみれば、学問の入門という目標でしたら、実は学校教育においては成立しない。なぜならば、学問をやるということを想定していない生徒たちも存在するからです。ある意味で、学校教育というのは、そういう相対主義つまり人によってみんなそれぞれ違っている。そういう相対主義が方法論的に全く批判されないまま、まかり通っている。そういう業界であるというふうに言うことができると思います。

言ってみれば、「真・善・美」のような究極的な価値観に基づいて教育がなされるというようなことはない。真でもなければ虚でもない。善でもなければ悪でもない。美でもなければ醜でもない。というような曖昧な目標に向かって、それを目標と呼んで良いかどうかも本来は問題なんですけど、そういう曖昧なものに向かって、教育がなされている。従って、当然のことながら、それに基づく成果などについて、語ること自身が不可能である。と、こういう問題がある。

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