長岡亮介のよもやま話449「教育問題の本質的な難しさ:個人的経験と普遍性のジレンマ」

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⏰日曜日 2025.08.17 03:07 · 8mins

平和教育に限らず、教育の問題というのは実は簡単そうに見えて難しいというところに、その真の難しさがあると私は考えています。というのも、教育問題というのは、誰でもが関心を持ち、そして誰でもがそれについて一家言を要する。つまり、何らかの言いたいことがある。その何らかの言いたいことがその人の個人的な経験に依拠したものであれ、多少なりとも経験に広がりを持つものに裏付けられているとせよ、所詮個人的な経験に基づいて、普遍的な問題を気楽に論じてしまうというところに、その難しさがあるんだと思うんです。

哲学の問題にしろ、歴史の問題にしろ、あるいは文学の問題にしろ、そんなに個人的な体験を勝手に吐露されてはたまらない。多くの人はそう感じるので、その問題について議論が盛り上がることはありません。しかしながら教育の問題については、そういうバックグラウンドの確かな知識、経験、見識なしに誰もが論ずることができる。そして誰もが、「今の教育は酷すぎるよ」というような平凡な結論を、あたかも最終的な結論であるかのごとく述べて、そして多くの人がそれに賛同する。そういう状況があるんだと思うんです。

これがなぜそうであるのかということを深めて考えていくと、意外に難しい問題がそこに横たわっています。学校教育というものの持っている本質的な不健全さ、学校教育ってのは本当は健全でなければならないんですけども、どうしても不健全なものになっていかざるを得ない、そういう構造的な問題がある。その一つの例というか、証左を述べるならば、学校の先生と言われる人たちが、最初に初任者として赴任したときには、生徒と同じようなレベルであるわけですが、それが何年か経つと、5年10年15年をたっていくと、ベテランになってきてしまうわけですね。そのベテランになってきてしまったときに、そのベテランとは一体何なのかっていうと、実は、例えば小学生のベテランとか中学生のベテランとか、高校生のベテラン、中学校・高校については教科制が取られてますから、大げさに言えば、中学数学のベテラン、高校数学のベテラン、そういうつまらないベテランになってしまうという問題があり、本来は自己研鑽を続けなければならない職業の人たちが、実はその研鑽を忘れてしまうという構造的な問題があって、それをまたベテラン教師というふうにしてもてはやす風潮があるということもあるんだと思います。

そういう意味で学校教育は、今言った問題に限らず、多くの構造的な問題を抱えているがゆえに、学校教育について何か一家言申し上げるとなると、誰でもがそれなりに立派な意見を言う。そして、「それは改善しなければいけない。それが政治の責任である。」と、こんなふうに勇ましい意見が平気で出てくる。

つまり、学校教育の問題の真の難しさは、学校教育について誰でもが平気で、それの限界や持っているネガティブな側面について、さもそれが普遍的なものであるかのごとく、論じてしまうことが挙げられると思うのです。もっともっと謙虚に学校教育の現状を見なければならないんですが、やれ教員の不祥事を取り上げ、やれ生徒の非行問題を取り上げ、そういう形で、学校教育の問題というのは、非常に表面的な取り上げ方が素人目、素人的な全く批判的な思考を抜きになされてしまう。そこに学校教育の問題を論ずる際の最も深い問題がある。

それでいて、学校の先生っていうのは、言ってみれば5年とか10年とか、生徒がたった1年で勉強することを、自分たちが5年も10年もかけて同じことをやってるわけですから、当然その間に学力のギャップが生まれるのは当たり前の話ですね。そしてそういうギャップのある教師に習うという生徒たちが、どのような精神状態にいるかということ、これを考えれば、想像するだに恐ろしいような現実があるということがわかっていただけると思います。

そういう問題を全然考慮することなしに、「今どきの学校は」と、こういうふうに論じてしまう傾向がある。これが大変に不幸なことであると、私は考えています。教育の問題については、まだまだ論じなければいけない問題が多くあるのですけれども、今回は、こういう教育の問題を論ずることが何故にいつもしょうもない議論に収束していってしまうのか、という一番の構造的な原因についてお話しさせていただきました。

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