長岡亮介のよもやま話443「公平な報道の難しさ:立場の違いを超えた中立性の追求」

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最近、選挙が近いせいか、ニュースなどでも「公平な報道ということに気を配っている」という情報が流れてくるのですが、私はそもそも公平な報道というのは、口で言うのは簡単であるが、実際にそれを実現するのは極めて難しいと、感じているというお話をしたいと思います。

というのは、意見の異なる、あるいは立場の異なる二つの側、三つ以上あっても構わないんですけども、それぞれの立場からの発言、それを偏らずに引用することで偏らない報道ができると思っている節があるのですが、そんな馬鹿げた話はないと、私は思います。

対立する二つの勢力、あるいは三つ以上の勢力が、それぞれに自分の主張を展開し、それをそのまま報道したところで、公平な報道などできるはずがないというのが、私の考えです。なぜ私がこう考えるかというと、それぞれの立場の主張というのを、それぞれの側が発信する側のままに、それをまるで録音したものを再生するように報道する。つまり、報道の側で勝手な編集を入れないということを守りさえすれば、相手の立場あるいは対立する双方の立場に対して、意見をきちっと聞いたことになるのか、あるいはそれを聞くリスナーの人々に正しく理解してもらえるのかどうかということについて、私は本来否定的であるということですね。

つまり、その立場に立つということは、立場に立ってちょっと考えてみるというようなことではなくて、その長い歴史の一部分にしろ、それを共有して生きるということなしには理解、本当の意味での理解というのはできないことでありますから、表面的なセリフ、それを繰り返してみたところで、何にもならないということです。本質的な報道っていうのはあるべきだと思うんですね。本質的な報道というのは何かというと、情報の表層をなぞるのではなく、その報道の寄ってきたる根拠に、ちょっとでもリスナーが思いを馳せる。そういう情報を提供するということです。

例えばごく最近で言えば、アメリカ合衆国において、軍時大パレードをする。あるいは地方の省の州都に暴動が起きたということで、海兵隊あるいは州兵を派遣するというようなことを、本来その権限にない人が命じたという事件がありましたけれども、その事件において、その行為が合法的であるかどうかということを審査するという裁判所の仕事を、それを報道局がすることはできませんね。報道局ができることは何なのかっていうと、私は大変これは面白いと思ったんですが、この動員によって、毎日いくらいくらの経費がかかりますという報道でありました。納税者は国民ですから、その納税者に対して、この出動によっていくら予算が使われたのかということは、当然納税者として知る権利があることでありますね。

我が国ではほとんどそういう報道はありません。防災のために自衛隊が派遣されました、あるいは消防団が派遣されましたという話ありますけれども、その人たちがボランティアとして活動しているのではなく、仕事としてそれに取り組んでいるのですから、当然のことながらそれにかかる諸費用というのは、国民の負担で払うべきものであるわけです。しかし、そのことに触れる報道が我が国は全くない。しかしアメリカではごく普通になされているということが、商業的なテレビ番組を見ていても感ずることで、結局のところ、偏らない報道というのは何なのかっていうと、双方の言い分を聞くということの他に、「双方の言い分の根拠となっている隠れた事柄を発掘して明らかにする」ということではないかとと私は思うんです。

ある意味で、これは数学的に物事を考えるっていうことに繋がることであるわけで、これが正しいか間違っているかということを、正しいとか間違っているとかって、それをヒステリックに叫ぶということではない。そのデモを仕掛けることではないんですね。そうではなくて、その事柄の背景にどのようなお金の動きがあるのかということ。それは国民にとって、大いに関心を持たなければいけない事柄であるだけに、そういうふうに報道を取り上げるということが、大変に効果的であるのに対し、我が国ではそれがなされていない。

そして、関税問題に関して我が国が思うように交渉進展できないことに対して、アメリカなんかでは、「日本は参院選があるから、今ははっきりしたディールに応じることができないんだ」というような分析が堂々と出ているんですが、日本の公共放送を聞く限り、私は「日本のアメリカ対米交渉が、参議院選挙を巡ってその大きな票田を当てにしているために、政治的な決断ができないでいる日本政府」というような当たり前の報道が日本ではなされていないということに、大変に残念に思います。

アメリカの立場、日本の立場、韓国の立場、これを並べて並列的に言えば、日本が置かれているのはどういう立場であるかっていうのがわかるというのは、全くの間違いで、結局のところ、日本がどのように見られていて、そして日本がどのように見られようとしているか。そこで相手に足元を見透かされているという紛れもない現実に、国民は目を覚ますときではないかと、私は考えております。

それは、数学をやってる人間であれば、命題を叫ぶだけの人は数学者ではないわけですね。命題を提案すると同時に、その証明を提示しなければならない。その証明に相当するものをつけてこそ、公平な報道になるのではないかと、私は考えます。

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