長岡亮介のよもやま話460「学校教育用語の不自然な表現に危機感 – 『学び合い』の言葉に疑問」

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⏰水曜日 2025.08.20 10:20 · 6mins

言葉の使い方に敏感な注意を払う必要があるというお話をいたしましたが、私は非常に不思議に思うのは、言葉を教えるはずの学校という場において、使われるいわゆる学校教育用語の中に、あまりにも不自然な表現が度々あるということに、私はある種の危機感を感じています。

その危機感の代表的な言葉が「学び合い」っていう言葉なんですね。教育において「教える」という言葉と、「学ぶ」という言葉、二つの対極的な表現があるわけですが、20世紀以降の教育界の中で、teachというよりもlearn、「教える」ということよりも「学ぶ」ということが重要であるということの意味が、とても強調されてきたように思います。

確かに、いくら教えても学ぶ気がなかったならば、その「教える」という行為は全てむなしいわけですね。一方「学ぶ」という姿勢がありさえすれば、teachがいかに貧困であっても、何らかの意味で学ぶことができる。そういう意味で「学びこそ学習の本質である」という意見には、傾聴に値するものがあると思うのですが、「学ぶ」ということの意義を強調したいあまり、最近の文教行政筋は、「学び合い」という言葉を流行らそうとしてるみたいですね。級友と一緒に成って学習目標を達成する。そういう意味で「何とかし合い」っていうのは、そういう言葉を使うのが好きなんだと思います。

「学ぶ」というのは自動詞であって、他動詞でない。だから自ら学ぶということはできるわけですけど、人に学ぶということを教えることはできない。教育というのは究極のところ、学びとは何かを教えることである。to teach how to learnという表現を英語で聞いたことがありますが、また言い得て妙でありますね。まさに教えるということは学び方を教えることなんだということです。

学び方を一緒になって学ぶということ、これが文教行政筋が進めたいことのようなんですが、学ぶというのは自動詞ですから、「学び合い」っていうのはできないわけですね。一緒になっていくっていうのはできない。「教え合い」っていうことだったらできる。教えるっていうのは他動詞ですから、人に対して物事を教える。相手の人は学ぶ気があれば、教えることに耳を傾けて教えてもらうということができる。

教育においては「教え合い」というのはしばしば重要なファクターである、と私も思うのですが、だけど学習の核心は、やはり学びにあるわけで、教えることにあるわけではない。そういう意味で「教え合い」というのを強調し過ぎるのも行き過ぎると馬鹿馬鹿しいことになるんだと思いますが、その「教え合い」という言葉を更に馬鹿馬鹿しくしてるのは、「学び合い」っていう言葉です。

今、小学校でこの言葉が全く疑いを差し挟まれることなく使われているという現実を、それが存在するということを聞くと、私はこんな不自然な、そして不見識な表現が、学校という一番言葉を大切に教えなければいけない場で使われていることに対して、大変深い懸念、深い危機感を感じざるを得ません。皆さんはどうお考えになるでしょうか。

コメント

  1. 中筋智之 より:

    「学ぶ」について,広辞苑に他動詞しか記されませんが,長岡先生が訳語とされた「learn」についてProgressiveに他動詞及び自動詞が記されています.
    「学び合い」が記された文科省の同資料に「...

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