長岡亮介のよもやま話448「平和教育と歴史の記憶の風化に関する一考察」

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⏰土曜日 2025.08.16 12:32 · 8mins

我が国では、「平和教育」という言葉があります。特に、第二次世界大戦の徹底的な敗北、無条件降伏という敗北を未だに「終戦」という言い方でごまかしているような国において、無条件降伏に至るような徹底した敗北が、そしてその敗北に伴う国民の困窮がいかに悲惨なものであったか、ということを語り継ぐことが大事なことだ。それが平和教育だ。そういうふうに言っている人が多いのだと思いますけれど、私はたとえどんなに悲惨な経験であっても、時間がたてば、その傷が癒されていくものであると。そしてそれは言い方を変えれば、歴史の記憶が風化していくことだ、と言い換えられると思います。全ての記憶は、そのように時間による風化というものから、逃れることができないのである。

そういう厳然たる事実があるということを踏まえた上で、しかし、私達は戦争という悲惨な経験をした。無条件降伏という情けない外交政策上の大失態を、国民を上げて支持し、それを失敗したことによるツケを、重いツケを払った国民として、やはりその事実をすっかり忘れさるっていうことは、あってはならないと思います。

しかし、それは単にいかに悲惨なことであったかっていうことを記憶し、語り継ぐということではない。むしろ私は、現在行われている戦争、ウクライナとロシアの間で戦われている戦争、あるいはガザ、パレスチナの地域で、イスラエルとの間に行われている戦闘、そういう現に存在する悲惨、それと向かい合うこと、向き合うことそのことがまさに私達の過去の悲惨な歴史をたどるということに重なるわけで、過去の記憶の中に、私達は未来を見据えることができるのではなく、過去の歴史これを単なる過去の歴史ではなく、現在進行中の悲惨として捉えるという視点こそが大事だ。言い換えれば、単に語り部として語り継ぐということが大切なのではなくて、現在進行中の歴史の悲惨を見つめることそのことの中に、まさに過去の歴史を現在に生かすということ。そういう奇跡的な学習の機会があるのだと思います。

歴史はかつて、皆さんが学校で勉強したような、「何年に何があったという事件がありました」というような、年号と大事件との対応関係の記憶ではなくて、実際にそのような大事件の中で、どのような人間模様が展開されたのか。どのような悲惨があったのか。それによって、どんなに人間は愚かな決断を自ら進んでやっていったのか。という私達の先人の犯した過ちについて、厳しい批判的な眼差しの構築を含めて、過去を見つめること。決して楽なことではないと思いますが、そのことの中に、歴史を見るということの中に、実は過去を忘れないという、私達にとってとっても大切なテーマがあるんだと思います。

そして、過去のつらい戦争などにおいて、悲惨な目に遭い、場合によっては死を遂げるという人たちの惨めな思い、情けない思い、そういったものを私達が受け継いで、未来に生かすということが、本当にできるとすれば、それは私達が過去を、愚かな人たちが犯した間違いとしてではなく、私達も同じような間違いを犯すところであったというところに身を置いて、一緒に考えるということ。そして私達の現在の生き方の中に、そのような愚かさがないかどうかということに鋭敏であること。それが大切なのではないかと思います。

80年前の敗戦の日、その敗戦の日が、原爆投下からこんなにも時間をたてて、ようやく決定できたという情けない歴史。これを私達は一部の指導者の責任にすることはできない。私達国民一人一人の愚かさの問題として、自らに問い返さなければならない、と私は思います。

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