長岡亮介のよもやま話327「人の犯すミスについて」(病室から)

*** 音声がTECUMのオフィシャルサイトにあります ***

 今回は、「人間が犯しやすいミスをいかに防ぐか。防ぐことができるか」ということについて考えてみたいと思います。病院にいると、やたらにチェックが細かいことに気づきます。私はバーコードを手に巻いていて、看護師さんが点滴などをするときに、必ずバーコードをチェックして、これが該当する患者のものであるかどうか、必ず検査するわけですね。そしてその後に名前も呼んで、それが間違ってないかどうかっていうのを、さらにチェックする。こういうふうに医療の世界においてミスを犯さないようにということは、医療においてミスを犯すと救いたいと思っている命をかえって失わせてしまうという結果に繋がりかねない。こういうちょっとしたミスが命取りになるという経験を、医療関係者がたくさん積んできたからだと思うんですが、日本のようにミスを許さないという風土というのは、私は大変危険だと思うんですね。

 こういうふうに、医療が自分たちの犯すかもしれないミスに対して最大限の注意を払うというようになったのは、一種のアメリカ文化の良さでありまして、そういうミスが起きたときにどうしてそのミスが起きてしまったのかということを、そのミスの起源にさかのぼって明らかにしようとする。そういう努力の蓄積ですね。日本ではよく「ヒヤリハット」という言い方が医療関係者の世界でなされているんですが、実は「ヒヤリハット」って、ヒヤリとしたり、ハッとしたり、そういうような事件にならないような小さな事件、最終的に問題とならなかったかもしれないが、実は問題になるかも知れなかった事件、そういうのを事象としてきちっと明らかにして、その再発防止に努めるということなんですが、実はそういうふうに入念な注意を払っていても、ミスは起きるもんなんですね。そして、私は医療ミスについて言っているだけではなくて、人間が犯すありとあらゆることに対して、ミスはつきものであるということをお話したいわけです。

 もちろん、今の先ほどの点滴の事前のチェックのように、ミスを犯さないようにするために、仕事の中にルーティン的なミスを防ぐためのチェックを設けて、馬鹿馬鹿しいほど丁寧にチェックするということもありますけれど、そういうふうにシステム的に厳重に管理すれば管理するほど、実はそのシステムから漏れたところでミスが起きてしまう。そのことに私達が注意を向けないと、とんでもないミスを犯しかねないという現実があることは、意外とみんな知らないのではないかと思います。ミスを犯すと追及する。こんなミスを犯すなんて信じられない。そういうふうにミスを犯した人を弾劾追求する。そういうふうにして追求すればミスが防げるか。あるいはミスの責任を取らせることができる。そういうふうに考えている人が、少なくないようですけれども、私達はミスを減らすためには、ミスに対して寛容にならなければならないという逆説に気づかないといけないと思うんです。

 人間はミスをする動物である。人間がミスをするのは人間がクリエイティブだからで、クリエイティブでないコンピューターはミスを犯しません。でも、コンピュータにミスをしないためのシステムを載せようとすると、人間がプログラムを書かなければいけない。人間の書くプログラムにはミスはつきもので、人間が書いたプログラムミスをよく業界用語ですがバグ、虫と言います。プログラムに潜んでいた虫を退治することをdebugging(デバッキング)と言います。デバッキングは、プログラマーであればもう必須の作業でありまして、私も過去に私自身が書いたプログラムに潜んでいたミスのことを思い出すと、本当に笑ってしまうほど簡単なミスを見逃しているっていうことが、結構あるんですね。皆さんは携帯電話をお使いだと思いますが、携帯電話を使っていると、オペレーティングシステムのアップグレードあるいはバージョンアップに対応してダウンロードしてくださいっていうようなメッセージが、よく来ると思います。最近ではそういうのまでオートマティックにやるようになっていて、何か不安がありますけれども、そのプログラムが頻繁にバージョンアップを繰り返すというのは、結局のところ、どんなプログラムバージョンアップしても、そこにバグが潜んでいる。

 特に最近のプログラムは大型化していますから、そのミスを発見するっていうことは容易でないわけですね。ちょっと使いやすく改良するというふうにしてやった改良が、とんでもないところにミスを産んでしまった、ということもあるわけです。コンピュータはミスをしませんが、コンピューターを使いこなすために必要なプログラミングは人間が行いますから、ミスがあるわけです。最近はコンピューターも、ミスを犯すことを承知の上で、コンピューターらしいミスを含めて、コンピュータを活用する“生成AI”なんて言われるものが流行っておりますけれども、コンピューターに絶対確実な処理を命令するんではなくて、コンピュータにやらせて、情報収集をして、それをきちっとしたデータとして整理する。そういうことまでコンピュータにやらせる。こんなことをコンピュータにやらせるんだから、むちゃくちゃといえばむちゃくちゃですよね。

 ですから、そこにはもうでたらめな情報がいくらでもありうるわけです。でも、それでも人間が全部それをすることに伴うことのコストと、それからデメリットを考慮すれば、コンピュータを使ってそのような処理をすることにメリットがあるっていう考え方が大勢を占めてきている。それに未来があるっていうことを絶賛する人がいますが、コンピュータで新しいテクノロジーがデビューする度に、そういうことが言われてきました。私から見るとまたかというふうに思いますけれども、若い人は、「これで新しい時代が開かれるんだ。コンピュータが知能を持つんだ」ってそういうふうに思ってらっしゃるかも知れません。しかし、知能と言われているもの、それが今行っている生成AIのような知能であれば確かにそうかもしれません。

 しかし、人間が持っている深い知性、特に創造的な知性、しかもミスを見逃してしまうようなくらい創造的な知性、これはコンピュータでは決して真似できないものではないかと私は思っています。人間の持っている深い知性を生かすためにも、ミスに対して寛容である、特に人の犯したミスに対して寛容であるということが、とても大切ではないかと私は考えています。

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