長岡亮介のよもやま話464「学校教育における成果の評価と目標達成プロセス」

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⏰木曜日 2025.08.21 07:55 · 6mins

前回、学校教育を成果で安易に測ってはならないというお話をいたしましたが、学校教育においても当然達成すべき成果というのは、最初に目標としてしっかり掲げられていて、その目標に至るまでのプロセスが方法論として確立しているということであれば、成果を測ることは比較的容易にできるはずです。

実際例えば、「野球で全国大会に行って優勝するということが唯一の目標となる」という教育カリキュラムがあったとすれば、このカリキュラムに沿って実施し、無事全国大会に行って、優勝の文字を勝ち取れば、それは大成果ということになるでしょうし、そうならなければ成果が出なかった、というふうに評価しなければならないということになる。

言い換えれば、成果というのは、掲げるべき目標があって初めて語られるものであって、目標がはっきりしないところで成果を語ることに、教育の持ってる困難があると言える。教育の持っている目標が多様であるということが、成果という単純な結果を語ることを困難にしているわけで、例えば100人の生徒が1学年にいるとすると、100人の生徒1人1人の教育の、あるいは学習のゴールというのは違っていていい。そうなると、それだけで100通りの様々な学習成果というのがあるとすると、それを達成したときの成果を評価するということも100通りの各々について、その成果を評価しなければならない、という難しさがあることになるわけである。

成果を語るためには、そもそも達成目標が提示されなければいけないんだけれども、学校教育においては、実は達成目標について語ること自身が、教育を狭めてしまう、制限してしまうものとして、ネガティブに捉えられているということがあって、あえて目標を語らない。これが教育の大事なポイントであるというような、勇ましい意見まで時々耳にするほどである。

しかしながら、子供たちを集めて一斉に何かをしていくときに、その一斉行動の目標や目的が一切明らかにされていず、曖昧なままになっていること自身は、不潔なことであり、本当は目標とか成果を語るために、第1の教育目標が語られなければ、本当はならない。およそ一般に目標とか目的というのについて語ることを全て避けるという、私達、この半世紀以上続いている文化の様式が、本当はおかしいということに気づかなければならない。ビジネスワールドがこれだけ鮮烈に人々の心を打つのは、その成果主義があまりにも露骨であるためであるに過ぎないだろう。

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