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⏰木曜日 2025.08.21 07:31 · 9mins
久しぶりによもやま話で、学校教育の話に戻ります。学校教育の持つ最大の、と言ってもよいくらい難しい困難は、学校教育においては、その成果が何によって測られるのか。それが明確でないということにあるように思います。教育の成果というものを易々と論ずることができると思うのは大間違いでありまして、いわゆる成果主義と教育ほど縁遠いものないと言って良いと思います。
いわゆる成果主義というのは、売上第一のようなもので、短期間で結果が出るわけですね。短期間で出た結果が、長い期間で見たときに正しいかどうか。これは、きちっと見抜くのは経営者の見識だと思いますが、短期間で考えるならば誰でもできる。いわゆる数字上のデータでわかるということです。
教育はそれに対して、数字で表現されるような、より正確に言えば、数値で簡単に表現できるような成果というのを考えることができない。例えば、1年間ある勉強を一生懸命やった子供がいるとして、その子供が1年間の間にめくるめく成長を遂げているわけだけれども、その成長がどの程度のものであるのかということを測ることができない。他の子供と比較して、その成長を相対的に見るという方法もないわけではないけれども、甚だしく不完全である。
いわゆる学校の成績というものに対して、世間の評価が一般に低いのは、学校の成績というのはあてにならないというのが常識になっているからです。成績があてにならないとすると、何があてになるのか。これは非常に難しい問題で、多くの学校では、この難問に応えるために、上級学校への進学成績でもって、学校の実力あるいは教育成果を測ることができるというふうに考えて、進学成績を宣伝に使っているという状況があることです。
確かに、進学成績というのは、学校の挙げる教育成果の一つではあるかもしれないけれども、同時に一つでしかないということも事実なわけで、というのも進学成績というのは、学校の教育成果として挙げられる全てではないからであり、一方で、学校の教育成果というのは、そのような単純な尺度で測られてよいものでもないからである。大げさに言えば、学校教育には成果というのは、客観的に測られるものは存在しない、と言ってもよいくらいである。
それでいても、世間が良い学校とか悪い学校とかっていうことを気楽に言います。つまり、教育成果が上がる学校と上がらない学校があるというわけだけれども、その場合はほとんどが進学成績で見られてるのが一般的である。では進学成績のあるものは客観的なデータとして存在するのかと言うと、それがないのは非常に厄介なところである。
ある大変に優れた少数の卒業生が出るということをもって成果と見るか、凡庸ながらそれなりの学力を持った学生が大量に卒業生として出るということをもって、大きな成果と見るか、見方はこのように、いわば正反対なものは存在しうる。
教育成果というものを測ることができるはずであるとは思うものの、それを測る尺度が存在しないということに、我々は厳然とした注意を払わなければならない。言い換えれば、教育を論ずるときには、あらゆる低俗な成果主義と縁を切った上で、そういうものとは別のところに、全く異なる成果を語る切り口が存在するということを信念を持って貫く。そういう覚悟が必要である。
今の教育の持っている諸困難の代表的なものは、成果を語ることのできない学校教育の中に、奇妙な成果主義を密輸入し、学校教育のステークホルダーたちが、それぞれその密輸入された教育成果について、暗黙の了解として語ってしまっている点にあるのではないかと思う。
成果主義といかに決別するか。学校教育の中で最も深刻に問われなければならない。非常に深刻な問いである。これは別に学校教育に限った話ではなく、子育てであるとか、あるいは家庭の経営であるとか、いろんなものに多く当てはまるわけで、成果主義と無縁の世界があるということを認めることがまず重要ではないかと考える。


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