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⏰火曜日 2025.08.19 06:38 · 7mins
こんにちの教育の持っている構造的な難しさの問題に、「教科書という教材で教育がなされるということがあること」を指摘しましたが、実は教科書というのは、あらゆる国において、その国の文化ともいうべき根強く社会に定着した形式であり、国によって教科書のあり方は、ずいぶんと違うということが意外に知られていません。
特に、アメリカなんかで使われている教科書を持ってきて、アメリカではこんなに分厚い教科書で、カラフルで、説明も豊富で、こういう本が使われているのに、日本の教科書はなんて貧弱なんだ。こういうふうに勇ましく論ずる人がいるのですけれど、アメリカならアメリカにおける教科書、分厚い教科書あります。それが実際にはどのように使われているのか。その使用の実態を含めて理解している人は、極めて少ないのではないかと思います。
ありていに言ってしまえば、アメリカでは分厚い教科書は与えられますが、その教科書の隅から隅までをクラスの全員が理解できるように丁寧に教えるということはまずない。教師は、生徒に応じてその能力に合った部分を部分的に教科書として使って、他の部分は触れることもない。そういう使い方をするわけです。ある意味で生徒の能力に応じた教科書の使い方という点で言えば、真に弾力的な良い方法のように思いますが、一方で、生徒の能力をそのように固定的に捉えて良いのか。生徒の能力が勉強しているうちに、どんどん伸びていく。そして、こんな教材は無理だと思っていたところまで生徒が上っていく。そういう可能性はないのかと言われると、アメリカの教育者も弱いんだと思います。
「生徒の能力一人一人に応じた教科書をあてがう」という点では素晴らしい理想に聞こえますが、その生徒の能力を誰が見抜くのか。誰が判定するのか。どのような責任を持ってそれを行うのか。これには特有の難しい問題があるわけでありまして、日本とアメリカにおける教師の置かれている立場の違い。それも裏では深く関係しているように思います。
教科書の問題はこのように、実は社会とか文化とか歴史とか、といったあまり学問的でないものに裏付けられてというか、裏打ちされているということを忘れてはならないと思います。教科書問題を論ずることの難しさは、多くの人が教科書を自分の手でパラパラっと見て、それで教科書についてわかった気になってしまう。こういうところにもあります。
そもそも国によっては統一言語がないために、教科書を国家全体で1個のものとしてまとめることができない。そういう社会的な難しさを持っている国も実際には多く存在するわけで、教科書というのは本当に国によっていろいろなんですが、少なくとも我が国におけるように、教科書が非常に硬直して扱われるという国においては、教科書の問題は、教育の問題と切っても切り離せない、非常に重要な問題があるということです。
しばしは、私自身もそうだったのですが、学習指導要領というもので、どういう単元を扱うか。これを文科省が定める。この定めた学習指導要領に従ってしか教科書が作れないので、朝令暮改のような学習指導要領の変遷が、教科書を貧しくしているというふうに思っている人は、結構多いと思います。私自身もそうでした。しかしながら、実は教科書問題の背景には、学習指導要領よりももっともっと深い根、いわば陰湿な問題が隠されているということ。それに気付かないとまずいのではないかと考えます。


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