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こんにちは。 乙藤先生とピアノ連弾をさせて頂いた田中栄治と申します。
乙藤君(以下、「君」で通させて下さい。)とは麻布の中1-1からの同期で、土筆ゼミナールも中1の英語と数学から通っていました。今となっては、小澤征爾関係で斎藤秀雄ばかり有名になってしまいましたが、明治期の英語の巨頭としての斎藤秀三郎は、斎藤秀雄のお父様です。
さて、その斎藤秀三郎の流れにある出来成訓先生(ご自身は、最後の斎藤学派だと自認され ていらっしゃいました)が英語のメインを担当されておりました。私の理解で簡単に申し 上げれば、minimal 英文法の入った文章をなるべく自然な context で早めに入れてしまおう、具体的には、中2の半ばぐらいに文法的なことは一通り終わっていたかと思います。
それに対して、数学の方は初めは篠崎寿夫先生が、そして、私が中3か高1の頃に長岡先生 が長崎憲一先生と共に「駿台のスター来たる」ぐらいの感覚が周囲にあったように記憶しております。
私の勝手な理解ですが、数理的な理解については生徒の内面の成長と深化なくしては無理 との判断が先生方にあった所為なのかな?と思っておりますが、土筆の数学は、中学時の 土筆の英語程には早く進むことを意図していなかったように思います。
それでも、進学校に在籍していた私たちの進度は早く、古川佳子氏のスピーチにあった通り、私たちは高1の時に高2のクラスに入れて頂いておりました。数学の授業の中で、所謂雑談を聞いたのは私の中では初めての経験でありました。
若者にありがちの思想的なものに傾倒していた私は、ある年、長岡先生への年賀状に何か それなりの内容を書いたのでしょう。頂いたお返事には「田中君、ヒルティの幸福論は 読みましたか」の一言。とにかく痺れました。今となっては当たり前の認識ですが、専門家 の中でも特に優れた人は、数々の「専門」を持っていらっしゃることに遭遇した初めてでありました。
紆余曲折があって、初めは数学ではなく物理を専攻し、日本の大学に嫌気がさしてアメリカ に出たのが1985年。(途中略)数学に専攻を変えると決心し、今度は英国の方で学ぶ ことになる際に、推薦状を書いて頂いた1人が長岡先生です。
「田中、何を書いて欲しいか、英語で書いてきて」
「???」
以後、こういう経験は度々するのですが、その時は目が点になりました。数学的な面での 赤ペンは色々と入ったのですが、英語全体としては、「へぇ~、ちゃんと書けるように なるんだぁ」と滅多に聞けないお褒めの言葉に内心嬉しく思いました。後になって「藤田先生も同じようにされるんだよ」とのこと。
その後、母校の麻布で教えることになるのですが、海外の教員の面倒見の良さを見てきて、日本の良さまでは理解していなかった私は、すぐにやめて、東工大に行き、何の縁か、そこで乙藤君に再び会ったのです。その後、すぐに完全に数学の世界に行ったというわけでは なく、橋爪大三郎先生の研究室に入り浸ったり、予備校で教えることに熱中しておりました。
何かの折、黒本:研文書院の大学への数学を手伝って!とお声がけ下さり、その様な時期 に、長岡先生としばしスーパー銭湯に行く機会がありました。乙藤君は数ⅠAから手伝って おられましたが、私は数ⅡBからでした。
そして、東大東工大スペシャルが発刊され、人気となり、「田中、今度は京大・阪大スペシャルを一緒に作るぞ!」とお声がけ頂き、その流れで「田中、そろそろ、数学に戻って来いよ」とやさしく言って頂きました。長い目で人間を観察し、今この一瞬だ!という時に 言葉をかけて頂いたことに心から感謝申し上げます。
残念ながら、その時になって研文書院がcloseすることになり長岡先生との共著の夢はなくなりましたが、それがきっかけで、千葉県の(先生のお言葉で言うところの 1.5流校)で 数学の教員として働くことを20年程やって参りました。
私としては、長岡先生と同じレベルでなくとも、自分より下の世代の子たちに同様なことを してあげたいと思っておりますが、なかなか内面まで開いてくれる生徒が少ないのを悲しく思っております。
周囲の話を総合すると、いわゆる小学生相手の塾では「生徒=お客様」として扱ってしまい、騒いていても注意しないで放置しているところもあります。学校の広報活動をする ときは、勉強の前に、まずは「炊事・洗濯・料理の何でも結構ですから、お子さんにさせて あげて下さい。」ということを個人的には話しています。学校の宣伝など全くせず、自分の 教育観を話してしまうことも多くなってきました。
皆さまの世代ですと、ある教科が嫌いでも、その先生のされた雑談との類はよく覚えていらっしゃるものではないでしょうか?
私の灰汁が強すぎるのかもしれませんが、色々と教科以外の話をすると、一部の生徒からは 「お前は、余計なことは喋らず、手っ取り早く(俺たちが)数学をできるようにする努力を せよ」とでも言わんとするアンケートが戻ってきて、心が折れます。
「今、わかってくれなくても、あと~年後、彼らが社会に出て苦労したときに、何か数学の 教員が・・・ってこと言ってくれていたなぁ」などと思い出してくれれば良いと自分に言い聞かせて教室に向かっていく毎日です。
野矢茂樹先生の「論理トレーニング」が人気のようですが、「朝日新聞の天声人語を読みましょう」に対するアンチテーゼとして痛快に読めました。と同時に、こういうことがわからない人が多いことを危機的に感じています。ある神奈川県の国語教員対象のセミナーに出たこともありますが、野矢先生の出題に対して正解を得た教員は0でした。
イスラエルの問題等も、第一次世界大戦からの話を要約し、イギリスの三枚舌外交の話を 伝えているメディアを見たことがありません。勉強不足も甚だしいと怒りに似た感覚を 覚えております。
数理的なことの復興、若手教員のサポートなどの目的に TECUM というアイデアに繋がら れたのではと推測致しますが、同じように
数理的なこと以外(排他的に考えられるかどうかは別問題ですが)で、若者をサポートする 活動が出来ないでしょうか?このような会をお開きになることをOKされたからには、異分野 他業種の方々との火の飛び出るような議論・そしてアイデアの芽生えも意図されていらしゃったに違いないと思うのです。
話が長くなるので一度、話をここで終わらせ、ブラームスの話を少しさせて下さい。
長岡先生が(ポリシーは変えずとも)表面的な仕事の場は変えられてきたというお話を お風呂で初めて聞いたときに、既に、私の頭の中ではブラームスのハンガリア舞曲が 鳴っていたと思います。ジプシーとは何か?の定義はさておき、「辛い生活を、速いテンポ で洗い流して過ごしている」というのが個人的なイメージです。
麻布で教員をしていた今から30年前、指揮をしたブラームスの交響曲の1番のアンコール曲として演奏したのがハンガリア舞曲の1番でした。もちろんオーケストラ版ですが、原曲はピアノ連弾です。誰かとやりたいと思いつつ云十年が経っていました。
当日は色々とミスをしましたが、長岡先生に捧げたい曲を、旧友の乙藤君と弾ける機会を持ち、また皆様に暖かく聴いて頂けたことを深く感謝致します。
一緒に合わせたのは当日の昼の2時間半と、その1週間前の3時間のみでした。1週間前の 時には、わざわざ新幹線の自腹を切って東京まで来てくれた彼との友情にも感謝しております。
[自己紹介等せよ」についついつられ、 本論まで話があまり行っていないので、書き直すかわりに 新しコメントを追加させて頂きます。 書き直すと、また後回しになってしまいます。(自己紹介は上の書き込みで↑)
私が当日話したかったのは、
①日本の今の退廃的状況は絶望的であるという状況を踏まえ、
②数理的なものに限らず、今の若い人々(and/or 我々)を救える何かが出来ないか?
③何なら出来るか?何をすべきか?どのように?
それを、数理に限定せずに議論する場を作りたい、
という内容です。
加えて、専門が異なる各分野に進まれた諸先輩方から、
(カルチャーセンター的な乗りではなく)真剣に考え、宿題を読み込み・・・ 等をきちんとしてくる人のみ対象の勉強会というのを開催すべきなのではなかろうか?
というのが私の意見でございます。
ATPが生体内ではとてつもない量が生成されているはずなのに、なぜ、ATP製剤があるのか? とか、医学であろうと、政治経済であろうと、何でも良いと思うのです。
興味がある人が参加すれば良い。儲かるとか、流行りのことだけ尊重されるのではなく、 自分は~が大切だと思うから、是非とも知って欲しいという方がいれば(いなければ 話になりませんが)、その場を提供する意義はあるのではないか?
ただ、この与えられた書式では、相手が誰だがわからず、どのくらい話して良いのか わからない。結果として、結果として書き込む人が少ないとなってしまわないだろうか? と心配しております。
専門家が、自身の良心に恥じることなく、かみ砕いた言葉で解説するというのは、かなりの 頭脳がいる仕事で、もっと尊重されるべきかと思っております。
是非とも、能力ある皆様が、この知見を広めたい!と次々に声を上げて頂くことを 期待しております。
土筆ゼミナール組の乙藤隆史です。
田中栄治君が土筆ゼミナールの様子について語られていますので、私から少し補足します。 私共の学年では、高校数学は指導要領上では「数学I」「数学IIB」「数学III」という編成でした。田中君が述べている通り、土筆ゼミナールの数学カリキュラムは指導要領通りの学年配当でした。
土筆ゼミナールでの長岡先生の授業は、一回に2題または3題の問題をじっくり解説する、という形式でした。板書はとても綺麗で正確でした。
問題解説以外に、一般事項の説明もあったのだと思います。三角関数の加法定理の証明を省略されたことを今、思い出しました。
ある日、たまたま遅刻して教室に入り、授業がすでに始まっていたのですが、黒板を見ると、一番上に(なんと!) 「剰余類環入門」 との題目が書かれていました。内容は合同式ですが、剰余類の説明も環の説明もあったとは思えません。私自身は、当時、剰余類も環も知りませんでしたが、なぜか違和感は全くなく、題目の付け方が面白いなと今でも思います。このような「先取り授業」も興味深いです。
駿台の夏期講習では「数学的数学考究」という講座も担当されており、「総合的研究 論理学で学ぶ数学」として書籍化されています。土筆ゼミナールにおけるこちらの側面、という話題もありますが、もし機会があれば、また書いてみます。
せっかくお集まりいただきながら、皆様との懇談の時間があまりにも限られていたので、このような書き込みサイトを TECUM の server 管理の方にお願いして作ってもらいましたが、視力の低下以前から、Internet 上のこの種の、良くいえば気楽な、悪くいえば責任が重視されない「情報交換の場」には、その昔から、ある距離をおいて来ました。しかし、運用の仕方によっては便利な面があることをこの度再確認しました。
いろいろな大変恐縮するご挨拶の中で、共通していえることは、指摘されて改めて思い出させていただくことが多いことでした。 昔のことは、自分ではすっかり忘れているんだなぁと、「反省」すること頻りでしたが、そんな中で的確に過去の思い出をありがたく凝縮していただく 御言葉も多く、自分の入るべき穴を探したい気分でした。
先日の会はちょっと単純化し過ぎているかもしれませんが、私にとって、くるおしいほど懐かしい郷愁と、赤面する恐縮と、表現仕切れない感謝の時間でした。
考えてみると、私が経壇に立った期間はずいぶんな長さになりますが、その間一貫していたのは、「知識だけは大人」のような「頭でっかち」の都会的な青年に育てることを徹底して嫌っていたことです。その意味で、いわゆる「先取り学習」的な講義はしたつもりはまったくありませんが、田中君、乙藤君の記憶の中ではそれなりにという限定は必要かと思いますが、私は、意外にも啓蒙的な教育家だったようです。
お二人のメッセージに関して、ただ一つ、数学の業界用語に関して付け加えさせていただければ、私が『剰余類環』という用語について講義をしていたという話は出ていますが、当時の学習指導要領をご存知ない人には誤解される可能性があるかと考えます。当時、霞ヶ関筋は、「剰余系」という呼び名の普及と定着を計っていたという背景があってのことだからです。「同値関係」で定義される「剰余」の代表元からなる集合をこのように「系」と呼ぶ現代的な純粋数学主義の横暴に憤りを覚えていた私は、どうせ学習するなら、たとえ難しかろうが、加法や乗法が定義される「環」という《中身のある概念》を、その起源に沿って教えるべきであると考えていたので、敢えて抽象代数の中核的語彙を、大切な術語として 扱ったのだと思います。(実はこの部分は残念ながら鮮明な記憶にはありません。)「群」という抽象代数の単純な単語だけで人間社会にも同様の《構造》があると見た文化人類学者の業績がもてはやされていた当時の文化情況も念頭にあったのは確かでしょうが。
この歳になると、まったく中身を知らないで流行り言葉を使っている大人達の「活躍」が目につきます。たとえ「難しい言葉」でも、中身を少しでも理解して使えば良いのになぁ、と思います。
例によって脱線した雑談が長くなりました。
コメント
こんにちは。
乙藤先生とピアノ連弾をさせて頂いた田中栄治と申します。
乙藤君(以下、「君」で通させて下さい。)とは麻布の中1-1からの同期で、土筆ゼミナールも中1の英語と数学から通っていました。今となっては、小澤征爾関係で斎藤秀雄ばかり有名になってしまいましたが、明治期の英語の巨頭としての斎藤秀三郎は、斎藤秀雄のお父様です。
さて、その斎藤秀三郎の流れにある出来成訓先生(ご自身は、最後の斎藤学派だと自認され
ていらっしゃいました)が英語のメインを担当されておりました。私の理解で簡単に申し
上げれば、minimal 英文法の入った文章をなるべく自然な context で早めに入れてしまおう、具体的には、中2の半ばぐらいに文法的なことは一通り終わっていたかと思います。
それに対して、数学の方は初めは篠崎寿夫先生が、そして、私が中3か高1の頃に長岡先生
が長崎憲一先生と共に「駿台のスター来たる」ぐらいの感覚が周囲にあったように記憶しております。
私の勝手な理解ですが、数理的な理解については生徒の内面の成長と深化なくしては無理
との判断が先生方にあった所為なのかな?と思っておりますが、土筆の数学は、中学時の
土筆の英語程には早く進むことを意図していなかったように思います。
それでも、進学校に在籍していた私たちの進度は早く、古川佳子氏のスピーチにあった通り、私たちは高1の時に高2のクラスに入れて頂いておりました。数学の授業の中で、所謂雑談を聞いたのは私の中では初めての経験でありました。
若者にありがちの思想的なものに傾倒していた私は、ある年、長岡先生への年賀状に何か
それなりの内容を書いたのでしょう。頂いたお返事には「田中君、ヒルティの幸福論は
読みましたか」の一言。とにかく痺れました。今となっては当たり前の認識ですが、専門家
の中でも特に優れた人は、数々の「専門」を持っていらっしゃることに遭遇した初めてでありました。
紆余曲折があって、初めは数学ではなく物理を専攻し、日本の大学に嫌気がさしてアメリカ
に出たのが1985年。(途中略)数学に専攻を変えると決心し、今度は英国の方で学ぶ
ことになる際に、推薦状を書いて頂いた1人が長岡先生です。
「田中、何を書いて欲しいか、英語で書いてきて」
「???」
以後、こういう経験は度々するのですが、その時は目が点になりました。数学的な面での
赤ペンは色々と入ったのですが、英語全体としては、「へぇ~、ちゃんと書けるように
なるんだぁ」と滅多に聞けないお褒めの言葉に内心嬉しく思いました。後になって「藤田先生も同じようにされるんだよ」とのこと。
その後、母校の麻布で教えることになるのですが、海外の教員の面倒見の良さを見てきて、日本の良さまでは理解していなかった私は、すぐにやめて、東工大に行き、何の縁か、そこで乙藤君に再び会ったのです。その後、すぐに完全に数学の世界に行ったというわけでは
なく、橋爪大三郎先生の研究室に入り浸ったり、予備校で教えることに熱中しておりました。
何かの折、黒本:研文書院の大学への数学を手伝って!とお声がけ下さり、その様な時期
に、長岡先生としばしスーパー銭湯に行く機会がありました。乙藤君は数ⅠAから手伝って
おられましたが、私は数ⅡBからでした。
そして、東大東工大スペシャルが発刊され、人気となり、「田中、今度は京大・阪大スペシャルを一緒に作るぞ!」とお声がけ頂き、その流れで「田中、そろそろ、数学に戻って来いよ」とやさしく言って頂きました。長い目で人間を観察し、今この一瞬だ!という時に
言葉をかけて頂いたことに心から感謝申し上げます。
残念ながら、その時になって研文書院がcloseすることになり長岡先生との共著の夢はなくなりましたが、それがきっかけで、千葉県の(先生のお言葉で言うところの 1.5流校)で
数学の教員として働くことを20年程やって参りました。
私としては、長岡先生と同じレベルでなくとも、自分より下の世代の子たちに同様なことを
してあげたいと思っておりますが、なかなか内面まで開いてくれる生徒が少ないのを悲しく思っております。
周囲の話を総合すると、いわゆる小学生相手の塾では「生徒=お客様」として扱ってしまい、騒いていても注意しないで放置しているところもあります。学校の広報活動をする
ときは、勉強の前に、まずは「炊事・洗濯・料理の何でも結構ですから、お子さんにさせて
あげて下さい。」ということを個人的には話しています。学校の宣伝など全くせず、自分の
教育観を話してしまうことも多くなってきました。
皆さまの世代ですと、ある教科が嫌いでも、その先生のされた雑談との類はよく覚えていらっしゃるものではないでしょうか?
私の灰汁が強すぎるのかもしれませんが、色々と教科以外の話をすると、一部の生徒からは
「お前は、余計なことは喋らず、手っ取り早く(俺たちが)数学をできるようにする努力を
せよ」とでも言わんとするアンケートが戻ってきて、心が折れます。
「今、わかってくれなくても、あと~年後、彼らが社会に出て苦労したときに、何か数学の
教員が・・・ってこと言ってくれていたなぁ」などと思い出してくれれば良いと自分に言い聞かせて教室に向かっていく毎日です。
野矢茂樹先生の「論理トレーニング」が人気のようですが、「朝日新聞の天声人語を読みましょう」に対するアンチテーゼとして痛快に読めました。と同時に、こういうことがわからない人が多いことを危機的に感じています。ある神奈川県の国語教員対象のセミナーに出たこともありますが、野矢先生の出題に対して正解を得た教員は0でした。
イスラエルの問題等も、第一次世界大戦からの話を要約し、イギリスの三枚舌外交の話を
伝えているメディアを見たことがありません。勉強不足も甚だしいと怒りに似た感覚を
覚えております。
数理的なことの復興、若手教員のサポートなどの目的に TECUM というアイデアに繋がら
れたのではと推測致しますが、同じように
数理的なこと以外(排他的に考えられるかどうかは別問題ですが)で、若者をサポートする
活動が出来ないでしょうか?このような会をお開きになることをOKされたからには、異分野
他業種の方々との火の飛び出るような議論・そしてアイデアの芽生えも意図されていらしゃったに違いないと思うのです。
話が長くなるので一度、話をここで終わらせ、ブラームスの話を少しさせて下さい。
長岡先生が(ポリシーは変えずとも)表面的な仕事の場は変えられてきたというお話を
お風呂で初めて聞いたときに、既に、私の頭の中ではブラームスのハンガリア舞曲が
鳴っていたと思います。ジプシーとは何か?の定義はさておき、「辛い生活を、速いテンポ
で洗い流して過ごしている」というのが個人的なイメージです。
麻布で教員をしていた今から30年前、指揮をしたブラームスの交響曲の1番のアンコール曲として演奏したのがハンガリア舞曲の1番でした。もちろんオーケストラ版ですが、原曲はピアノ連弾です。誰かとやりたいと思いつつ云十年が経っていました。
当日は色々とミスをしましたが、長岡先生に捧げたい曲を、旧友の乙藤君と弾ける機会を持ち、また皆様に暖かく聴いて頂けたことを深く感謝致します。
一緒に合わせたのは当日の昼の2時間半と、その1週間前の3時間のみでした。1週間前の
時には、わざわざ新幹線の自腹を切って東京まで来てくれた彼との友情にも感謝しております。
[自己紹介等せよ」についついつられ、
本論まで話があまり行っていないので、書き直すかわりに
新しコメントを追加させて頂きます。
書き直すと、また後回しになってしまいます。(自己紹介は上の書き込みで↑)
私が当日話したかったのは、
①日本の今の退廃的状況は絶望的であるという状況を踏まえ、
②数理的なものに限らず、今の若い人々(and/or 我々)を救える何かが出来ないか?
③何なら出来るか?何をすべきか?どのように?
それを、数理に限定せずに議論する場を作りたい、
という内容です。
加えて、専門が異なる各分野に進まれた諸先輩方から、
(カルチャーセンター的な乗りではなく)真剣に考え、宿題を読み込み・・・
等をきちんとしてくる人のみ対象の勉強会というのを開催すべきなのではなかろうか?
というのが私の意見でございます。
ATPが生体内ではとてつもない量が生成されているはずなのに、なぜ、ATP製剤があるのか?
とか、医学であろうと、政治経済であろうと、何でも良いと思うのです。
興味がある人が参加すれば良い。儲かるとか、流行りのことだけ尊重されるのではなく、
自分は~が大切だと思うから、是非とも知って欲しいという方がいれば(いなければ
話になりませんが)、その場を提供する意義はあるのではないか?
ただ、この与えられた書式では、相手が誰だがわからず、どのくらい話して良いのか
わからない。結果として、結果として書き込む人が少ないとなってしまわないだろうか?
と心配しております。
専門家が、自身の良心に恥じることなく、かみ砕いた言葉で解説するというのは、かなりの
頭脳がいる仕事で、もっと尊重されるべきかと思っております。
是非とも、能力ある皆様が、この知見を広めたい!と次々に声を上げて頂くことを
期待しております。
土筆ゼミナール組の乙藤隆史です。
田中栄治君が土筆ゼミナールの様子について語られていますので、私から少し補足します。
私共の学年では、高校数学は指導要領上では「数学I」「数学IIB」「数学III」という編成でした。田中君が述べている通り、土筆ゼミナールの数学カリキュラムは指導要領通りの学年配当でした。
土筆ゼミナールでの長岡先生の授業は、一回に2題または3題の問題をじっくり解説する、という形式でした。板書はとても綺麗で正確でした。
問題解説以外に、一般事項の説明もあったのだと思います。三角関数の加法定理の証明を省略されたことを今、思い出しました。
ある日、たまたま遅刻して教室に入り、授業がすでに始まっていたのですが、黒板を見ると、一番上に(なんと!)
「剰余類環入門」
との題目が書かれていました。内容は合同式ですが、剰余類の説明も環の説明もあったとは思えません。私自身は、当時、剰余類も環も知りませんでしたが、なぜか違和感は全くなく、題目の付け方が面白いなと今でも思います。このような「先取り授業」も興味深いです。
駿台の夏期講習では「数学的数学考究」という講座も担当されており、「総合的研究 論理学で学ぶ数学」として書籍化されています。土筆ゼミナールにおけるこちらの側面、という話題もありますが、もし機会があれば、また書いてみます。
せっかくお集まりいただきながら、皆様との懇談の時間があまりにも限られていたので、このような書き込みサイトを TECUM の server 管理の方にお願いして作ってもらいましたが、視力の低下以前から、Internet 上のこの種の、良くいえば気楽な、悪くいえば責任が重視されない「情報交換の場」には、その昔から、ある距離をおいて来ました。しかし、運用の仕方によっては便利な面があることをこの度再確認しました。
いろいろな大変恐縮するご挨拶の中で、共通していえることは、指摘されて改めて思い出させていただくことが多いことでした。
昔のことは、自分ではすっかり忘れているんだなぁと、「反省」すること頻りでしたが、そんな中で的確に過去の思い出をありがたく凝縮していただく
御言葉も多く、自分の入るべき穴を探したい気分でした。
先日の会はちょっと単純化し過ぎているかもしれませんが、私にとって、くるおしいほど懐かしい郷愁と、赤面する恐縮と、表現仕切れない感謝の時間でした。
考えてみると、私が経壇に立った期間はずいぶんな長さになりますが、その間一貫していたのは、「知識だけは大人」のような「頭でっかち」の都会的な青年に育てることを徹底して嫌っていたことです。その意味で、いわゆる「先取り学習」的な講義はしたつもりはまったくありませんが、田中君、乙藤君の記憶の中ではそれなりにという限定は必要かと思いますが、私は、意外にも啓蒙的な教育家だったようです。
お二人のメッセージに関して、ただ一つ、数学の業界用語に関して付け加えさせていただければ、私が『剰余類環』という用語について講義をしていたという話は出ていますが、当時の学習指導要領をご存知ない人には誤解される可能性があるかと考えます。当時、霞ヶ関筋は、「剰余系」という呼び名の普及と定着を計っていたという背景があってのことだからです。「同値関係」で定義される「剰余」の代表元からなる集合をこのように「系」と呼ぶ現代的な純粋数学主義の横暴に憤りを覚えていた私は、どうせ学習するなら、たとえ難しかろうが、加法や乗法が定義される「環」という《中身のある概念》を、その起源に沿って教えるべきであると考えていたので、敢えて抽象代数の中核的語彙を、大切な術語として
扱ったのだと思います。(実はこの部分は残念ながら鮮明な記憶にはありません。)「群」という抽象代数の単純な単語だけで人間社会にも同様の《構造》があると見た文化人類学者の業績がもてはやされていた当時の文化情況も念頭にあったのは確かでしょうが。
この歳になると、まったく中身を知らないで流行り言葉を使っている大人達の「活躍」が目につきます。たとえ「難しい言葉」でも、中身を少しでも理解して使えば良いのになぁ、と思います。
例によって脱線した雑談が長くなりました。