長岡亮介のよもやま話472『F.エンゲルスのクレド ー Communist Confession of Faith 』を出版しました

 皆さん大変お久しぶりです。私が最後の録音をしたのは、日本のいわゆる「若者の右傾化」といわれる、先進国の多くに見られる現象が日本にも見られるという指摘を受けて、そんな浅薄な情報を鵜呑みにして良いのだろうかという疑問を持ち、それを皆さんに発信した頃ですから、今から考えるとずいぶん昔の話になります。

 もはや日本でも、いわゆる「若者の右傾化」と呼ばれる現象は、もうジャーナリスティックには自明の現象となってしまいました。まる。まるは要らないのでした。私は、音声入力を昔からしてきた関係で、句読点を打つときに、しばしば、昔はそのように特別な指示をしなければならなかったわけですが、最近は、人工知能と言われているものの中で、広い範囲で考えれば、その応用の一つである自然言語認識といわれるもの。自然言語っていうのは、要するに普通の言葉ですね。それを、音声として聞くとか、外国語として聞くというのではなくて、それをテキストに直すっていうこと。コンピューターに入力できる形にするという変換。それは、従来は人間が担わなければならないことであったわけですが、機械でもできるというようになったことが、かなり大変革に見えて、いわゆる生成AIというものも、言葉を通じて、コンピューターに自分のやってほしいと思っている課題、これを伝えることができるようになったということ。

 それが画期的だと思われていて、世界中に大爆発と呼ばれる現象を起こしているわけですが、数学的に考えてみると、そんなに新しいものではない。昔から研究者たちが特にニューラルネットワーク、神経網、神経ネットワークと言われているものの数理を研究している学者たちの間ではともかくかなり早い段階から、このようなものがそのモデルになるのではないか、というようなことが言われてきた。それが実際に今、コンピューターの発達と普及、それから高性能化によって、一般の人々でもアクセス可能であるというふうになったというにすぎない。私自身はそう思っていて、例えば、人工知能といっても、人間の代わりになると言う人がいるのですが、それはくだらない人間の代わりにはなる。これはもう確かでありまして、私は昔からいらない人間はいらなくなる。ずっと言っておりました。本当にクリエイティブなことをやる人しかいらなくなる。そういうふうに申してきました。ごく常識的なこと、誰でもが言っていること、それを繰り返し、再生産するような仕事は、もはや人類にとっては何の意味もなくなるんだと。それは、機械で全部代替可能である。そういうふうに申してきました。

 そういう意味で、人工知能と言われているものが、このように流行するということに関しても、別に私自身は驚くことは何もないと思っています。そういう私でも、人工知能の威力というのには、その恩恵にあずかることはしばしばありまして、実際このように、皆さんに直接お話しをするという機会は、インターネットを介してでないと、もう年を取った私には、なかなかできることではありませんから、まさにこのようなことができるということ自身が、例えば、人工知能の発達のおかげであるということもできないわけではありません。

 しかしながら、私が申し上げることが、人工知能が言っていることと同じであるならば、私としては、このこれから言おうとしていることは、100%撤回しなければならない。私が言っていることは、もはや新しくない。私の言っていることは、もはや人工知能にとって代わられることである。そういうふうに、私は認めざるを得ないと思いますが、私自身がこれから申し上げることは、多分そういうことではない。皆さんにとって新しいこと、それを今回皆さんにお話ししたいと思っています。

 私は今78でもうじき79歳、そして来年には80歳になる、そういう老人でありますけれども、私が、20歳になる前に出会ったものとの出会いというのが、私の人生を決めたと言ってもいい。そういうような大きな出会いであったというお話を、今日まずしたいわけです。そういうお話は、実は私は今まであまり進んでやってきませんでした。それは、私自身が、私の生い立ちについて語るということを、特別の場面を除いては、あるいは特別なシチュエーションを除いては、わざと避けてきたということがあります。

 しかし、私はこの年になって、あえて私の生い立ちから、私が20歳を過ぎるくらいまでの、30歳近くになるくらいまでの人生において、実に大きな出会いであった、と私自身が思っていることについて、はっきりとしゃべるというか、文章にするという機会を作りました。その機会をつくったのは、これは私自身の意思によるものではなくて、まさに天啓というのでしょうか。本当に偶然にも、私にそういう機会をくださった人との出会いが存在したからであります。どういうものであったか。ここでは手短にお話ししますと、ある人が、マルクス・エンゲルスの共産党宣言という本があって、その日本語訳は読んだことがあるけれども、原典は読んだことがないので、原典で読みたいと、そうおっしゃったんですね。私はかねてから、何でも原典で読まなければ駄目だと、翻訳で読んでいたのでは駄目だ。そう申しておった関係から、それは良い心がけである、ぜひ原典に読みましょうと。しかし、共産党宣言の原典が何語であり、それがどういう形で手に入るかは分からないけれども、共産党宣言くらい有名なものであれば、原典を手に入れるのは簡単でしょう。原典を探しなさい。インターネットで、と言ったんです。

 というのは、私は数学史の研究を専門にしてきた人間でありますが、数学史でありますと、17世紀以降の文献であれば、重要なものはすべて全部インターネットのアーカイブとして、PDFファイルとして写真で手に入る。良いものに関しては、それをテキストに直して打ち直したものが手に入る。そういう時代に入って、久しいんですね。もう全世界の図書館や大学あるいは研究所はこぞって、自分とのところが持っていた貴重本といわれる宝物、私自身は宝物にいくつか触ったことがありますけど、例えば、アイザックニュートンのPhilosophiæ Naturalis Principia Mathematica(フィロソフィアエ・ナトゥラリス・プリンキピア・マテマティカ)という有名な本があります。日本語でも翻訳が出ています。しかし、その原典を触ったことがある人はまずいないと思うんです。日本において、そもそも触ることができる人は、そんなにたくさんいるわけではない。世界中に何冊も出たわけではない。そういうものでも、それなんかはものすごく爆発的なベストセラーであったはずですから、私たちでも日本にいても入手できる。そういうものでありますが、それこそ普通数千万円もするわけです。数千万円するものですから、私たちはその本に触るときに、1ページ1ページ手でめくるなんていう失礼なことはできませんね。当然、白い手袋をはめて、慎重に1ページ1ページをめくる。そういうことをするわけです。それを、例えば、機械式のスキャナー、今で言えばコピー機。そんなもんで取るなんていうことは、もうばちあたりも甚だしいことで、そんなことをやって原典を痛めてはいけない。そのくらい原典は大切なものだったんですが、今やそんなものがもう簡単に手に入る。時には有料かもしれませんが、多くの場合は無料で手に入る。そして、それを場合によってはテキストに打ち直してくれた完全なものが入手可能になっている。そういうことが、僕はインターネットで、人々がいろんな情報にアクセスできるようになったことの最大のメリットであって、くだらない情報、どうでもいい情報に、みんなが群がるということがいいことだとは、夢にも思わない。私から見れば、本当にクソみたいな情報には何の価値もない。

 でも、本当に珠玉の玉と言ってよいような貴重な情報にアクセスできるようになった。これが、21世紀の私たちの生きている時代の最大の幸せだと思うのですが、そのありがたさを感じている人は、案外少ないのではないかと思います。日本でも、そういうアーカイブを作ろうとする努力をしている人たち、地味な努力をしている人たちは、いっぱいいて、その中で最も有名なものは、青空文庫というものではないかと思います。主に近代に出版された本を全部文字をきちっとテキストに起こして読めるような形にしてくれる。無料でそういうものが手に入る。そういうありがたい時代に今入っているわけです。

 皆さんが芥川とか、あるいは漱石とか、そういう古典中の古典にアクセスしようとするときに、決して高価な古典叢書、明治文学全集とか、そんなものを買う必要が全然ない。たった1つの文献、例えば、太宰治の1つの文献、それにアクセスするということが、今や簡単にできるようになっている。これは、本当にありがたいことだと思いますが、それが国際的な規模でいうと、日本の比でないものすごく大きなプロジェクトとして進んでいて、その中で最も有名なものは、グーテンベルクプロジェクトと言われているものであります。グーテンベルクが印刷術を発明した時の文化革命に匹敵するような革命が今進行しうるのだということを確信する人々によって、過去の重要な文献がすべて簡単に読めるような形になっているわけです。それを利用しない手はないと思うのですが、我が国ではなかなかそういう風潮がありません。

 話を元に戻しますが、共産党宣言という皆さんもご存知の文献は、1848年に出されたものですから、今から数えても大して昔の話はありませんよね。150年くらい前って言ったら、いいんでしょうか。もうちょっと正確に言わなければいけないかもしれませんが、大して昔ではない。それはものすごくたくさん部数が出たわけです。薄いパンフレットのようなもんですから。その本についての原典はいくらでも簡単に手に入ると、僕は思っていたんですが、調べていただいた方が全然手に入らないと言うんですね。何が一番古いのか分からないので、いろんなものを選んできてくださって、最初のうちは、これもそうかな、これもそうかな、なんて見ていました。もともと共産党宣言はパリで発表されたっていういきさつがありますから、フランス語が原典だったんじゃないか、僕はそういうふうに高を括っておりました。

 しかしながら、マルクス・エンゲルスはドイツ人でありますから、ドイツ語で書いたっていう方が普通じゃないかなと思います。ドイツ語なんていうのは、当時は田舎の言葉でありますね。当時、ヨーロッパの産業の中心はイギリスであったわけです。イギリスが世界の工場と言われた時代でありますから、イギリスで英語で出版されたという可能性もあるかなとの思いで、そういうところをいろいろ調べてほしいと思って、自分でやるのがめんどくさいもので、それを全部お願いしていたわけです。いろんなものが見つかったんですが、どれを見ても、どうも本物っぽくないんですね。いかにもやっぱり偽物っぽいで、最初のうちは気が付かずに読んでいくのですけど、だんだん読んでるうちに、偽物っぽいってことに気づく。最初からきちっとその本の成り立ちとかって読んでいれば、それが実は本物でないということがちゃんと書いてあるんですけど、私はそういうところをサボっていたもんで、それに気づくのが大変遅くなってしまった。ずいぶんいろんな偽物というか、二次文献、三次文献、四次文献、そういうものを読んだ末に、英語版ではあったんですけども、極めて一次文献に近いと思われるものがあったんです。ひょっとすると、マルクス・エンゲルスは、英語で最初本を出したのかなと思ったくらい、その英語の文献はしっかりしていました。しかし、それをよく読んでみると、実は英訳版にすぎなくて。本当はドイツ語が本物の初版であるいうことが分かった。ドイツ語で第二版というのも出ているっていうことも分かりました。なんで初版の次に第二版を出したのか。こういう面白い話もあるんですが、ここではその話は置いときましょう。私の主な話ではないからです。

 私の主の話はここからなんですね。ずいぶん前置きが長くなりましたね。というのは、私はそこで、本当に目が覚めるような、文献に偶然出会ったわけです。それは、エンゲルスが書いたという“Communist Confession of Faith”。Confession of Faithという言い方は、キリスト教史にお詳しくない方はお分かりにならないかもしれませんが、これは信仰の告白ということでありまして、信仰告白と訳してもいいわけですが。カトリックでは、しばしば信仰箇条と訳されています。というのは、「私は以下のことを信じます」というのを、言ってみれば、箇条書き的に述べるスタイルになっているからなんですね。これはキリスト教史に詳しい方であれば、クレドという言葉を言えば、なんだ、クレドのことなのかというふうにおっしゃると思います。

 エンゲルスの本は、『共産主義者のクレド』という本なんですね。なんと共産主義者の信念箇条、あるいは信仰箇条、そういうもんなのか、なんて本を書いたんだろうと、最初非常に疑問に思いました。これを読んでみると、まさにキリスト教徒がいうところのクレド、日本ではラテン語知らない人が多いので、クレドっていう人がいますが、正しくはクレドーって言わないといけませんね、私は信ずるっていうことです。宗教的ないろんな神秘、例えば洗礼の神秘であるとか、結婚の神秘であるとか、いろんな神秘があるわけです。その神秘の中で最大のものは、人間は死んでも永遠の命にあずかるんだっていう神秘でありましょう。人は朽ちても、それで人生が終わりにならない。みんな朽ちるはずなんだけど、朽ちるはずのない永遠の生命にあずかるんだ。これが信仰の神秘の代表格かもしれませんが、そういうものをこう箇条書きにしたものがクレドーです。

 それの共産主義版なんですね。“Communist Confession of Faith”、一体なんていう本だろうと思って、ちょっと見てみると、ものすごく面白くて分かりやすくて。なんてこんなわかりやすいものをエンゲルスは書いていたのか。そして、調べてみると、その本を書いている最中のエンゲルスがマルクスに宛てて、もう自分たちがこういう本ではなくて、共産党宣言っていうマニフェストの形で、やはりこれをまとめるべきではないか、というような意見の手紙を書簡で出していたりする。そういうこともわかって、これは共産党宣言なんかよりもとても大切な文献で、これがなんで日本で無視されてきたのが理解できないと思ったんですが、実は無視されてきたのは、日本だけではなくて、世界的に無視されて、そういう歴史がわかったんですね。

 だったら、これを日本に紹介しない手はないと思って、私は翻訳だけでもささっとやって済ませて出そうと思ったんですが、私の友人の中で、そういう本は、やはり思想史の中で、きちっとした評価をして、長岡なりの脚注をつけて出すべきだというアドバイスがあり、その挑発に乗ってしまったために、出版はひどく遅れ、また出版は普通の商業出版に全く合わない形になってしまったわけであります。また、非常に大書になってしまったんですね。しかし、それをもう目があまりよく見えない、校正もよくできない私に代わって、献身的に手助けしてくれる人がいて、その方のおかげで、本にすることができました。

 これは、商業出版として世に出して、私が何かしらの印税を稼ぐというようなことは私の気持ちに反しておりますので、自費出版の形にしようと思ったんですが、自費出版っていうのは、自分の家が狭いときには大変に家に負担をかけるものなわけですね。最近は、コンピューターの発達のおかげで、On-demand publishingが簡単にできるようになりまして、それをOn-demand publishingの形で出すことにしました。結論から言いますと、私が出した本の書名は、『F.エンゲルスのクレド Communist Confession of Faith』という本なんですね。Amazonをはじめとした、そういう電子的な出版を取り次ぐ会社のサイトに行けば、すぐにお分かりになると思います。決して小さくない本なんですが、その中には、英文の“Communist Confession of Faith”ももちろん入っていますが、そのドイツ語版、オリジナル版であったドイツ語版も入っています。ドイツ語版を入れたのは、英語では伝わらないニュアンスがドイツ語にあるということが、ドイツ語版でわかったからなんですけれど。高校生や中学生であっても、英語版ならば読めるでしょうし、ドイツ語版も、ドイツ語を知っている人であれば、大学1年生以上であれば、十分に読めると思います。

 そのほかに、共産主義というのに対して、非常に強い嫌悪感とか、あるいは先入観、私に言わせれば、嫌悪感と先入観っていうのは似たようなもんなんですけど、それを持っている人に、本当はその嫌悪感も先入観も実はあまり正しくないんだ。もっと科学的なものの見方ができるんだということをお伝えしたいと思って、長々とした私なりの解説を書きました。そのために分厚くなっております。

 このよもやま話を聞いてくださっている方の中には、私のこういうメッセージが決して嫌いじゃないっていう方が少なくないというアドバイスがありまして、ぜひそういう人たちには、私がこの本にかけた、熱い思いを少しでも共有してもらいたい。そして、できたら、その本をインターネットを通して入手していただいて、じかに読んでいただきたい。そういう願いを込めて、このメッセージを久しぶりに発信することにしました。とても久しぶりなので、句読点まで入力しようとしたりして、不慣れなところもありましたけれども、非常に熱のこもった絶叫調のお話になってしまいました。それは、この本にかけた私の情熱を少しでも皆さんにお伝えすることができれば、と思ったからです。

 大変長くなりましたが、今回の特別よもやま話は、数学には全然関係なさそうな話でいて、実は私にとって数学と同じように私の人生の半分をリードしてきた、そういう思索についてのお話でした。このお話と私の数学と結びつけてくださると、私の95%くらいはわかっていただけるのではないか、そういうふうに思っております。それでは、失礼いたします。

コメント

  1. shin より:

    長岡先生,お久しぶりです。

    先生が実に「先生らしい本」を出版されたとのこと,ちょっと興奮気味に嬉しく思っています。
    私は共産党宣言とか,そちらの方は全く門外漢で,ドイツ語もさっぱりなのですが,...

    [全文を表示する]
タイトルとURLをコピーしました