長岡亮介のよもやま話446「戦前の記憶を語り継ぐ最後の世代への呼びかけ」

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⏰木曜日 2025.08.14 13:10 · 10mins

戦後80年が経ったということは、戦争当時0歳で生まれた人が、今は80歳であるということです。戦争当時10歳であった少年は、あるいは少女は90歳の老人になっているということですね。そうなってくると、戦前の生活の記憶を生々しく覚えている、自分自身の記憶として持っているという人は少なくなってくる。そういう人たちが、戦前の時代について、ともすれば寡黙になる傾向に対し、もっと語り部として、戦前を語ってもらわなくてはならない、と張り切る人が多いと思うのです。

確かに貴重な体験が語られないままやがて風化していってしまうということは恐ろしいことである、ということは十分に承知の上で申し上げているのですけれど、「果たしてそのリアルな体験をリアルに持っている人たちだけが、その体験をリアルに語ることができるんだろうか」という問題を立ててみますと、必ずしもそうではない。私達は例えば小説のようなものを読んで、それが現実の世界のものである以上にリアルに迫真を持って迫ってくるっていうことは、よくあるわけでありまして、そうでなければ、あらゆる物語というものが言ってみれは空疎空論にすぎないということになってしまって、面白くないわけですね。それは源氏物語にしても平家物語にしても同じだと思うんです。

言ってみれば、「リアルに体験したことのある人たちが、自分自身の目で見、肌で感じた、そういうことだけが最も重要な原体験であって、その他は抽象化された体験である」という立場は、私達の文化というものをなめきった意見だと思うんです。私達は、直接体験を語る人の語り口を通じて、その語り口を通じてそのことを語っている人以上に、その人と同じくらいリアルにそのことを感ずることができる。そういう特別能力を鋭敏に備えている、あるいは備えている機能を鋭敏に磨き上げることができる、と私は思うんです。また、そうでなければ全ての体験は、記憶とともに風化していってしまうという当たり前の運命を辿らざるを得ない。

私達は、人類の中の、いわば人類史的な記憶の中から、非常に重要なレッスンを多く学んでいるということは、私達がそういった記憶を風化させることなく、非常に大切なものとして持っているということですね。確かに古い記憶になるとぼんやりと風化してきてしまうという側面があるにせよ、近い記憶、生々しい記憶だけが本物の記憶であるという立場は、私達人間のある本性を大変に単純化しているのではないか、と私は心配いたします。

最近では、戦時中の悲惨な生活、それをリアルに若い人に伝えるために、バーチャルリアリティを活用するというような方法も出てきているという報道を目にするにつれ、少し悲しくなります。リアリティというのは、そういった仮想現実のものとは全然違うものであるということを私達は忘れてはならない、と思うんですね。一般に情報の量と、情報の質つまり情報を受け取ってそれを内面の感動とする力、その間には大きな差があり、これは多くの人が既に指摘していくことですが、情報の量と、情報の感動力、あるいは感銘力、情報の持つ力、人を動かす力、それとは少なくとも比例しない。情報量が多くなればなるほど、情報が豊かに人の心を打つということはあり得ないということ。

これは、わかりやすい例でいくと、ラジオとテレビを比較するといいと思うんです。ラジオはテレビに比べて遥かに情報量が少ない。少ないんですけれども、その情報の少なさを補って余りあるものがある。それはラジオの語学講座であるとか、あるいは語学講座はあまりにもくだらないとすれば、朗読の時間、これを例に取ってみると、朗読がいわゆるテレビドラマと比べると遥かに単純なものであるように見えていて、遥かに奥が深い。人の心を大きく揺さぶる、そういう力を持っている。と言えば、テレビとラジオっていう比較だけをとってみても、テレビが有利であるというような考え方は、少し軽薄であるということがわかっていただけると思うんです。

別にテレビとラジオに限りません。小説とラジオでもいいんですね。実際の小説とラジオの朗読、ラジオの朗読には朗読なりの素晴らしさがありますけども、小説を自分自身の目で読んだときの想像力の世界と比較すると、いかがでしょう。これは明らかに小説の方が上なわけです。しかるに小説の持ってる情報量というのは、テキストファイルのサイズで考えれば、ラジオの音声のデータと比べても遥かに小さいものですね。

テレビでは最近は4Kとか8Kとか、情報量の多い番組、その番組の方により大きな感動力があると言わんばかりに、8K・4Kの放送が一般化していますが、果たして昔の本当に素朴なレベルの解像度しかなかった白黒テレビの映像、そこで演じられたドラマなんかには感動する力が乏しかったのでしょうか。私にはそうは思えません。むしろ、当時の素朴なテレビのテクノロジーの時代に、立派な作品が多く作られ、それが子供向きのものであっても、大人も含めて、大いに深く感動する。そういう良い作品であったと私は思うのですね。

一般に情報の量が多くなればなるほど、情報の量の方に頼ってしまい、その肝心の発信する情報の質についての関心が薄くなるために、このパラドックスが起こっているのではないかと思うのです。私達は情報量が多い、迫真に迫った、そういう映像のようなものに対して、自然と大きな警戒心を持つというような姿勢を持ちたいと思います。これは私の若い人に向けた願いでもあります。

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