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教養の大切さということの核心は、目で見る、あるいは耳で聞く言説の真贋を見極めることができる能力を身につけることである。というお話をいたしました。人が言ってることをそのまま鵜呑みにするのではなく、あるいはその人の肩書きの重さによって、その発言を重視したり、あるいは軽んじたりすることではなく、その場その場に応じて、その本物と偽物らしさをきちっと見抜く力と言えば、これほど大切なものはないと皆さんは思ってくださると思うんですが、実はそういうことがわかってないと、とんでもない議論がまともな議論のように見えてしまうということの例として、一つ紹介したいものがあります。
それは現代では、学校の先生になることが大変に難しいという現実が生じているということです。あまり詳しい具体的な内容を詳細に述べることは、私の記憶力では少し危ないのですが、例えば中学校高等学校の数学、あるいは理科、国語、英語、そういう科目の先生になるためには、数学とか理科とか、そういう専門科目の知識の他に、あるいは専門科目を履修したという単位の証明の他に、教育独特の特有の単位が30単位以上も必要になる。大学を卒業するのに必要な単位数は120数単位でありますから、大学生活の膨大な勉強時間を割いて、教育のための単位を集めなければならない。そのためには教育実習とか、そういうのもあるのですが、私が若い頃は先生になるために必要なのは、教育原理、教育心理という授業に出なくても良いと言われていた、先生自身がそのようにおっしゃったそういう科目と、それから教科教育法という、これまた担当をする先生が私の授業は出なくてもレポートさえ出せば単位を出すからという単位、その他に教育実習それだけでありました。その他は、一般的な憲法とか何かを勉強していれば、それで良いとされていたわけですね。
今は全くそれが状況が違います。専門科目の他に、教育特有のもの、例えば教室運営の方法であるとか、あるいはよく私は理解できないんですが、単位を判定するための判定方法であるとか、そういういろんな具体的な技術的な事柄について、技術を超えてそれを一般論として論ずるような奇妙な科目、それがたくさんできていて、それをうんざりするほど取らなければならないという現実があり、またそれゆえに、これが大変に問題であることですが、例えば社会科学の専門家、例えば法学の専門家が、法学の専門性を持って教科教育の単位を収めたことにすることができない。そういう専門の科目の他に、教育特有の科目を取らなければならないがゆえに、教職の単位を、教職というのは教員になる教職教養という単位を取ることがそもそもできない。それゆえに教員になることができないという現実があるということです。
例えば東京大学の法学部を卒業して、大学院で2年くらいプラプラしているという人は世の中によく昔はいたものでありますが、そういう人たちがある時にちょっと意を決して先生やってみようかなと思って先生になる。あるいは弁護士を目指してるんだけども、今その弁護士になる勉強をする傍ら、教員もちょっとやってみようかなという、そういうちょっと不良っぽい先生が非常に優秀で、私など未だに心に残る授業をしてくださった先生方、そういう先生が出る幕がない、あるいは登場する場面がないということです。
つまり法学部で大学院に行く、そういうような十分な学識を修めた人は、その学識を収める過程において、教職になる機会、教職単位を取る機会、それを剥奪されている。あるいは、そもそもその大学において、そういう教職を取るコースを設置することができないでいる。その結果、教員になる人は、教員になるということを最初から決めている人、いわゆる教育学部に進む人に限られている。ある意味で教育学部という、教員になる人、最初から教職に立つということを第一志望にしている人が教員になるということ自身は、ある意味でとても良いことであって、挫折感を持って教員になるっていう人たちばかりであるよりは教員を第一志望にするという人がいるのは、それ自身は良いことなんですが、そのちょっと傍目に聞いてちょっと良いこと、それが本当に良いことであるかどうかというのを見る批判的な能力、それが教養というものであるというお話を前回いたしましたけれども、教員になるということを第一志望にした人たちが教員に皆、第一志望でなっていくかというと、実はそうならない現実がもう一つある、ということに目が向かない人が実に多いのですね。
教育学部を卒業しても、教育学部を出たということの実績の上に教員になるというんではなくて、大学によっては教育学部を置きながら、教員用の免許を取らなくてもいいっていう「ゼロ免」と言われるコースを設けている大学もあります。それは教育学部で教員になることを第一志望にすると、良い学生が集まらないという現実があるからです。多くの人はそういう現実があるということを知らずに、教職に就く人は教職を第一志望にするような人であってほしいという非常に素朴な願いから、「教職を第一志望とする人が教員になる。これは結構なことではないですか。」こういうことを言い、教員にでもなるかという、教職を第二志望、第三志望、あるいは第四志望とするような人が教員になる道を閉ざすことに賛成してしまう。結果として、例えば東大の法学部を出た先生、あるいは東大の工学部の大学院を出た人が、数学の先生になるというようなこと。これは夢のような人事だと思うんですが、その道が閉ざされてしまう。
最初から数学教員になるということを目標とした人たちによって、高等学校や中学校の数学や何かの先生が占められてしまう。これは子供たちにとってものすごく不幸なことであるということにまで目がいかない。要するに教養豊かな先生に、中学校・高等学校のときに出会った経験のない人たちばかりによって社会が運営されている、ということです。大変残念なことに、教員第一志望の大学に集まる人たちの中には、例えば数学で言うと、数学を憎んでいる、数学が大嫌いな人が、数学は暗記で済むからということで、数学科に入っているという現実さえもある。
現実を少し静かな目で見れば、自然に見えてくる風景が目に入らない人々のpassionateな、熱情っていうか、あるいは熱狂と言った方がいいかもしれませんが、そのような思いだけでもって行政が動いている。これは大変に残念なことです。大切なのは教養であって、そして深い深い教養であって、表面的な情熱、あるいは表面的な熱狂、そういうものに突き動かされない冷静な眼差しですね。そういうものを身につけるのが教養の大切さということです。
前回お話した教養に関連して、教育が今非常に残念な状況にある。いろいろと報道されておりますが、その各種の報道の背景には、いわゆるカッコ付きの教育専門家という人たちの存在の他に、そういう人たちの存在を許している、言ってみれば、世間の無関心、あるいは世間の人々の教育に関する無教養、それがあるということを指摘しておきたいと思うわけです。
コメント
先生のお話を伺えて光栄です。