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えらく間を置きましたけれども、久しぶりに音声認識ツールを使って原稿を書きます。久しぶりにそうしようと思ったのは、最近視力の低下が著しく進行してしまい、コンピュータを使って文字を認識することができない。認識することはできなくても、キーボードを叩けば正しく入るはずであるわけですが、ご存知のように日本語変換をするときには変換を正しくしなければいけないということで、変換ミスのチェックが必要なのですが、それ以上に私は今、病気の後使っている薬の副作用の関係で、指の、特に小指の付近、小指、薬指、中指、それは両手とも非常に鈍感になりまして、その三つのあるいは六本の指を使った入力が不安定になってしまい、そもそも入力が正しくないということもあり、実際上コンピュータを使った入力を諦めざるを得ない状況が続いております。そんな折、何とかコンピュータを利用するための環境を作ろうと努力してきたのですが、努力が一切虚しいというくらい、視力の低下が進行してしまい、強引な手術によって視力の回復を願っている今日この頃なのですが、そんな折に、そういえば昔使っていたツールを使って、音声認識することができれば、それによって原稿が書けるかと思い起こした次第です。
今日お話ししようと思っているのは、「いわゆる『学習指導要領』と大学入試」という、一般に中高生にとって一番関心が深い問題の核心的な問題なのですが、それに先立って、まず一番最初に考えなければいけない「学習の目標とは一体何だろう」ということについて、考えてみたいと思います。
勉強することは知識を身につけることだというふうに考えている人が世の中には存在するかもしれませんが、いわゆる「知識」というものが、特に教科書に書かれているような誰でも知っている標準的な知識というのは、もはや意味がない。そんな知識を正確に持っているということには意味がないということを、コンピュータの発達は明らかにしてくれたわけであります。平凡なレベルの学校で教えられている基礎知識に限らず、先端的な知識と言われるものであっても、人工知能と言われているものに匹敵する知識をきちっと鍛えている、そういう学習機関は中学・高校・大学、どこにも存在しないかもしれません。そういういう時代に生きているということをまずしっかりと確認していただきたいと思うのです。
その上で人間でしかできないもの、それが教育の、あるいは学習の目標となるはずですが、それは一体何だろうか。それは人間でしかできないような判断をするための基礎となるものですね。その基礎となるものを、私達は昔から教養と呼んできました。教養という言葉は、なかなか難しい言葉でこれを英語にするとどうなるか。外国語にするとどうなるか、こういう話もいろいろとありますが、日本では明治維新のような浮かれた政治が行われるはるか前から、漢学とか、あるいは、古代の文献の丹念な解読という作業によって、教養を身につけるということ。これがかなり厳しく行われてきたように思います。
明治時代の人々、これは本当に一部の人々に限られるのかもしれませんけれども、そういう学問の基礎となる教養、これが大変に深いものがあったと思います。教養の正反対となるのは、すぐに役に立つものでありまして、教養がいくらあっても、それだけですぐに生きていくことができるわけではない。教養の反対に役に立つ知識の代表は「読み・書き・そろばん」と言われたもので、これは言ってみれば、士農工商という、非常に不合理な身分差別によって、一番低い身分に格付けされた商人、その人たちが自分の才覚によって、身分制度を打ち破る、そういう力を身につけるための最初の一歩、それが「読み・書き・そろばん」であったわけですね。「読み・書き・そろばん」は本当に役に立つ知識であったわけです。それによって、商人の子供であっても、武家の子供よりもよほど大きな力を持つ。と、そういうふうに人生で成功した人は、少なくないわけであります。
しかしながら、「読み・書き・そろばん」というのは、所詮は実用的な技術にすぎない。実用的な技術を超えたところに「教養」というのがあるわけです。実用的な技術を超えているところにあるがゆえに、それは役に立たないものと烙印を押されて終わるという傾向が最近は高まっています。役に立たないものというのは、本当に役に立たないならば、そんなものはあっても仕方がないというのは確かなのですが、実は一見役に立たないように見えるものの中に、本当は真に役に立つものがある。といういわば教養の逆理というんでしょうか、一見役に立ちそうないものでありながら、実は本当に役に立つということことが昔から大切にされてきたんですが、私はこんにちを生きる皆さんのために、今必要な教養とは何かということについて、わかりやすい表現に直してみたいと思うんです。そうすればきっと多くの人が教養は大切ですねと言ってくれると思うからです。
それは一言で言えば、いろいろな情報が氾濫する中で、この情報は本当に意味を持っているか、意味を持っていないか。あるいは単なる表層に流れることを別の言葉で置き換えているだけなのか、それともその真相、表面の深いところ、表面の流れの底に流れる深い底流、それを把握するものになっているかどうか。そういうことを判断する。いわば真贋を見極める。真であるか真実であるか、贋、偽物であるか。真実と偽物の区別というのは、言葉の上では簡単ですが、実はすごく難しくて、世の中によく専門家というような顔をしてテレビなどに出てくる人がいますけれども、そのいわゆる評論家というんでしょうか、そういう方々の言っていることは、非常にしばしば、どのくらいの割合でっていうのは差し障りがありますので言いませんが、非常にしばしば単なる偽情報、あるいは表面的な情報にすぎないと、私は感じています。そういう本当そうに見えて実は偽物というものをきちっと見破る力、専門家ヅラした人の専門家のような表現、言い回し、その中にある胡散臭さ、あるいはインチキ、あるいは表層的すぎるもの、それを見破ることができるかどうか。そういう力が実は教養の力であると思うんですね。
なぜ役に立たないと思われる教養の中に、そういう現代の真贋を見極める力が潜んでいるのかと言われれば、それは昔から偉い人々が一生懸命考えてきた、それを凝縮した事柄、その中には、そういう真贋を見極める力を鍛える教育材料がたくさんあるということなんだと思います。
役に立つ、立たないということで、大切さの基準があまりにも気楽に語られる現代でありますが、私は、そのこと自身が教養のなさを物語っているんだと思うのですが、皆さんはいかがお考えになるでしょうか?
コメント
先生の素敵な声を拝聴できるだけで幸せです。
長岡先生
音声ファイルさえ送って頂ければ、原稿に起こすことは私でもやりますので
どうぞ遠慮なくお申し付け下さい。
逆に、私どもが長岡先生の何かをお伝えしたいときには、音声ファイルを添付
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長岡先生
音声ファイルさえ送って頂ければ、原稿に起こすことは私でもやりますので
どうぞ遠慮なくお申し付け下さい。
逆に、私どもが長岡先生の何かをお伝えしたいときには、音声ファイルを添付
すれば、どなたかが開いて下さると考えてよろしいでしょうか?