長岡亮介のよもやま話438よもやま話しばしのお別れのご挨拶(20240723)

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 久々によもやま話を録音させていただきます。なぜ久しぶりになってしまったかというと、実はいわば私の本業の方が大変に切羽詰まった忙しさに迫られて、よもやま話にかける時間がなくなったというより、より正確には、よもやま話をやっている時間にむしろもっとやらなければならないことが出てきたということなんですね。よもやま話というのは、私自身の中での位置づけは、そのときにたまたま心の中によぎった事柄、例えばニュースを聞いてとか、新聞を読んでとか、そういうときにちょっと考えたことを、皆さんと少し違うかもしれない切り口で切ってみせることが面白いのではないか、という発想で始めたもので、まさによもやま話でありますから、全然体系性があるわけではない。その日その日に思ったことを勝手に喋っている。よく言えば、その非体系性が面白いということになるでしょうが、ある意味では実に無責任で思いつきであるわけですね。偉い人の名前を勝手に持ち出せば、吉田兼好の徒然草のように、まさに心に思いますよしなし事を思いのままに語る。だから、論理的な順番とか体系性っていうのは一切気にしないということなんですけれど、そういう非体系性が面白い面もありますが、やはり自分の人生の残り時間を考えると、あまり非体系的なものにかけている時間が残されているわけではないということも冷静に考えてみると、現実なわけであります。

 実は私はテクムレターという会員に配る会報を、ふた月にいっぺんという形でずっと刊行してきたわけですが、その刊行がいわば滞っている。その代わりに、よもやま話が大きな位置を占めてきている。その過程では理事会において、やはり今の世の中体系的な情報の発信よりは、何が美味しかったとか、何を食べたとか、そういうどうでもいいようなメッセージを日常的に更新することが人々の心を惹きつけるんだという若い人々のアドバイスを受けて、私もそのようなものをやってみようかなと思ったのが、最初のきっかけでありましたけれども、やはり私にはなかなか向いていない。美味しいものを食べたときの感動ってこれは決して人に劣るものではありませんけれど、それをわざわざ写真を撮って、人に得意げに見せるというような趣味は私にはあまりない。美味しいものに出会ったときは、それをこっそりと自分だけの秘密にしたい。そういう私は、しょうもない性格の人間である。そういうことを考えると、やはりあまりそれは向いていない。そういう結論に至りまして、私は残り少ない時間をテクムレターに体系的な記述を連載していくということを優先することに、決心をいたしました。

 そうだからといってよもやま話のようなものを一切やめるという大決心をしているわけではありません。もしかしたら皆さんに直接語りかけるこういう機会があるということが大切だと思うことも、きっとこれからたくさん出てくると思うんですけれども、とりあえず、今回は皆さんにしばらくのお別れをさせていただくというご挨拶をしたいと思いまして、これを吹き込みました。私はよもやま話というものを決して軽んじているわけではないのですけれども、私の得意な分野ではなかったということ。そして、私残された時間を考えると得意でない分野に多くの時間を使うよりは、やはり少し得意な分野に集中的な時間をかけるべきだ。そういうふうに考えることにしたということもあります。

 このよもやま話を通じて、皆さんが私が予想もしていなかったような嬉しい反応を返してくださる、そういう喜びに出会ったこと。これについて深く感謝しておりますけれども、一方で、やはりよもやま話の無責任さから私の意図が十分に通じなかったという思いをすることも少なくなかった。そういう思い出があります。そういう思い出も含めて、もう一度よもやま話を再開する日まで、皆さんにはしばらくの間、“ごきげんよう”というご挨拶をして、閉めたいと思っております。

コメント

  1. Leo.橋本 より:

    長岡先生。
    僕は、この ”よもやま話” と出会えてよかったと思っております。

    僕が数学に熱心になったキッカケです。

    ありがとうございました。

  2. shin より:

    先生が「よもやま話」を休止されるというお話はちらっと伺っていましたが,どうか,先生が今するべきと思われることを最優先なさってください。
    私はこの「よもやま話」を通して,先生の変わらない「闘士っぷり」に触れることができて幸いでした。
    先生の一日一日が祝福に満ちたものとなりますよう,日々お祈りしています。

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