長岡亮介のよもやま話436「インターネットで『炎上』する小学校の数学教育の話題に対して皆さんに心がけてほしいと祈ること」

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 最近私のところに、今どきの小学校では、「0で割る」計算について、間違った教え方をしている先生が存在する。あまりにも酷い話ではないか、という情報が伝わってきました。私自身は、小学校において「0」のような本当に子供たちが理解することができているのかどうかわからない概念を教えることの方が難しくて、昔の「九九」という言い方、これは十進法であるのだから、1の段から9の段までの「九九」と言うのは、本当は数学的に正しくない。0の段というのがあって、0の段から9の段まで全部で「十十の段」と言わなければいけない。「十十の段」の計算っていうんでしょうか。「理論的には0の段というのは重要なんだ」という話をどこかでしたと思うんですが、そのときに、0段、あるいは日本語で言えば「零」というべきですね、「ゼロ」ってのは英語ですから、零の段というふうに言うべきなんですが、それをあえて避けて、小学生に教える。0という概念がないと、繰り上がりとかいうことを教えることができませんから、必ずやっているはずなんですが、掛け算をするときには0を省いて教える。これは、先人の偉大な知恵なんだと思うんですね。理論的には間違っています。ものすごく筋が悪いです。

 でも、小学校における実用数学、それを実践的に勉強する立場では0の段は省くという、これは非常に深い英知なんだと思うんですけれど、その英知がいつの間にか失われて、0で割るとか、0を割るとか、そういう例外的なケースを試験問題に出す先生が存在したというんです。私は「存在する」ということを強調するのは、圧倒的に多くの先生はそんな馬鹿なことはしないと思っているからなんですね。でも、インターネットの世界ではそういう例外的にひどい先生が存在するというだけで、大きな話題となる。業界用語では「炎上する」というのだそうですが、実に馬鹿げた話であります。

 0の持っていることの難しさをちょっとでも理解したいと思ったらば、大学において環論というのを勉強すればわかるわけです。一番最初に勉強する「環」という、リングという代数構造の持っている基本的な話が0なわけです。「0があるか、ないか」、話がえらく厄介なわけですね。なぜ0が厄介であるか。大学の数学を知ればすぐわかるはずなのですが、多くの人が、小学校・中学校あるいはせめて高等学校レベルの知識の範囲で、0を含む代数系についての議論を展開し、小学校の先生と言われる人たちをバッシングする。私はどうかと思うんですね。小学校では0の段を教えることの方がむしろ良くない。それを避けて教えた昔の教育、数学的には筋が悪い、論理的には筋が悪い、体系的には筋が悪い。でも小学生にはそれで十分だと、堂々と教えていた先生方の姿が、私の目には浮かぶんですね。

 ちょっと、0のことは知っている。中学生レベルあるいは高校生レベルの知識も危ない小学校の先生が、もしかしたら存在するかもしれないと思う。その先生たちがちょっと張り切って踏み出して、その一歩を踏み出す。本来踏み出しちゃいけないところを踏み出す。その結果大きな過ちをする。そして子供たちをそれに巻き込む。子供たちをそれに巻き込むことの不幸は、それが親たちを巻き込み、それが世論を巻き込むということでありますが、その愚かな先生1人の問題でなく、「最近の小学校の先生は」というふうに一般化されてしまうことです。

 私は繰り返しお話していますが、小学校の先生がある教科に関して専門家であるということが、教科教育法上は求められるのですが、私はそれは馬鹿げていると思います。小学校の先生が音楽を教え、同じ先生が体育を教え、同じ先生が書道を教え、絵画を教え、あるいは工作を教える。そして同じ先生が、数学や国語や理科を教える。社会を教える。それで一向に差し支えないし、そういうことができる範囲の知識に限定して教えることに意味がある、と繰り返しお話してきました。なまじ数学をちょっとかじった先生がかじった程度の知識を振り回すのは、非常に危険である。むしろ小学校の数学は、アマチュアの数学の精神で、アマチュアがアマチュアであるということを十分に配慮し、自覚して教える。だから決して踏み込んで教えすぎないということがとても大切です。

 私が子供の頃、私は国立大学の教育学部の付属小学校に通っていた。といっても長野県の話でありますが、その関係で教育の授業っていうのはよくありました。先端的な授業を展開されているようなんですが、私達子供たちから見ると何も面白くない話でありました。私はそれよりも、普通の先生の姿が、普段着の先生の姿が大好きで、そういう特別の教育の授業が終わるのを、いつ終わるかいつ終わるかと楽しみにしている人間でありました。何か先端的な授業をしなければならないというdutyがあることになっているんじゃないでしょうか。私はそれが馬鹿げたことであるというふうに思います。私の先生は少なくとも数学を専門とする先生でありませんでしたけれども、私に完璧に小学校でマスターすべき数学をきちっと教えてくださったと、そういうふうに感謝しております。今で言えば、自然数、正の整数が持つところの加減乗除に関する基本的な規則の持っている不思議さをきちっと教えてくれた。そういうふうに確信しております。

 今、ちょっと勉強した先生が何か踏み出してしまう。踏み出してしまった結果、結局土俵を割ってしまう。土俵を割ると話になりませんから、インターネットの炎上という話もあるのでしょうが、私は、99%以上を占める普通の先生が自信を持って、「自分たちは学問の専門家ではない。学問の基礎を教える専門家である」と胸を張ってくださっていることを信じています。なまじ学問性そんなものを気取るような先生は、ろくでもないと思うんですね。そして、その結果土俵を踏み出してしまう。そういうことがあっては本来ならないんですが、時々ある。その度に心無い人たちが騒ぐわけでありますけれども、そういう事例が1個や2個存在するということで言えば、私から見ると、大学の数学で教えられていることで、誤っていることはいくらでもある。こんなことを騒いだら大変なことになるという例がいくらでもあります。それでも、それをあえて騒ぎません。それは、実力のない数学者が存在するということは、考えてみれば自明の話であり、そして実力のない数学者が教えている大学、それはまだよくできたことに実力のない学生であるので、その実力のなさがお互いに打ち消しあって、結果として悪さを起こしてない、ということであることをみんな知っているからなんですね。それが通用しないのは小学校の世界なのかもしれませんが、危ない世界は中学校や高等学校の方にもっともっと深くある。本当に深刻な世界が高等学校の数学教育の中に闇として広がっている。

 私はそのことを知っていますが、それを闇として語って、皆さんこんなひどいことが行われていますよ、と言う気にはなりません。なぜならば、高等学校や中学校の先生には、専門教科というのははっきりとあるのですから、最小限自分たちで教える範囲のことについては、自信を持てるくらい自分で勉強してほしいと願うし、その勉強ができるだけの自由な時間を先生たちに与えるべきである。先生たちをできるだけ余計な業務から開放すべきである。そのことについては、声を大にして叫んでいるつもりでありますが、先生たちの実力のなさについて、こんなひどい先生がいるということを、口に出していうことを私は憚るのですね。それは、そのことについていくら叫んでも、もう間に合わないからです。実力のない先生を教員として雇ってしまった教育委員会とか、学校の経営者には重い責任がありますけれども、その責任を過去に遡って追求してみたところで、何の肯定的な結果が得られるわけでもない。であるとすれば、少なくともそういう先生が、「ハット気がつく。はたと自分で今までやっていたことには間違いがあったんだ、と気づくような」情報を静かに発信していくことの方が、私は日本の教育のために良い。そして世界の教育のためにも良いと信じて、これほどひどい例はあるということを騒ぎ立てるということを、あえて自分に禁じています。まして、小学校の先生に関して、それを騒ぎ立てることを、皆さんにもできるだけ避けるようにお願いしたいと願っています。

 数学に関して、大学において4年間勉強して、それで十分な教育の基盤が身についたと思っている人たちは、少なくとも高等学校の数学に関してはほんのごく一部をカバーしただけでありますし、中学校の数学に関してはその大部分を自分たちが中学校で勉強した範囲で理解しただけであるという日本の教員のお寒い事情は、もう教員養成課程の問題として、最初から自明であるわけです。これはGHQによって、戦後の師範学校が大学教育学部になった段階で、もはや明らかなことでありました。こういった構造的な問題について、私達はそれを抱えているということを深刻に自分自身の問題として捉え、それを改善していくために、できる努力を少しでもやっていくということが大切なことであって、それを騒ぎ立てるということは、本質的でない。その先生方に、自分たちの学力に不完全なものがあったんだということに、ちょっとでも気づいていただく。その機会を何としてもできるだけ数多く作っていく。そういうことに努力していくべきであると私はそう考えている。そして、これを聞いていいただいている皆さんにも、その私の決心と同じような決心をして、多くの周りの人に影響力を行使するような人であってほしいと願っているんですね。

 手っ取り早い話が、小学校に英語教育が導入されるという時代になっています。小学校の一般の先生が、「英語を綺麗に発音し、英語を正しく教えることができる。文法がきちっと教えられる」ということを、小学校の教員養成課程であんだけいい加減な英語教育をしてきたわけですから、それは鼻から無理だと思っています。だからといって、英語に関してネイティブスピーカーなり、英語の得意な先生を英語専門の教員として雇うということが、日本の小学校教育の中で一般化していく傾向が肥大化してくことは、私は非常に恐れています。とても心配しています。小学校の根幹が揺るがされるということで、とても心配しています。そんなことをもし許してしまったら、小学校の数学の専門、社会科の専門、国語の専門、そういう教科の専門にわかれ、そしてその教科にわかれた専門が、中学校や高等学校の教員の持っている教科の専門性すら危ないレベルの専門性を振りかざして、非常に貧しい専門教育をし出すんではないかということを、私は本当に心配しているんですね。そのような心配があるからこそ、教科専門性に対しては、私は常に否定的であり、その足を引っ張るような発言をしております。

 それは、昔からの尋常小学校レベルの小学校教育であって構わないんだということを、私自身が考えており、小学校の先生にもそのような教育で十分であると、自信をもって子供たちに対して欲しいからなんですね。教科の専門についての基礎知識、それが受験のために必要であると信ずる保護者たちが多数を占める愚かな世の中になってしまったときには、それはみんな塾に行けばいいじゃないですか。そこの塾に行くことによって、子供たちが塾で勉強したこと、それがいかに無駄なことであるかということに、やがて気づくような聡明な子供に、小学校のときに育ててほしいと私は願っているんです。塾で習ったことが全てであると信じて、中学校や高等学校でやがて勉強から脱落していく小学校の受験秀才のような人々を、たくさん生み出す愚かな社会になって欲しくない、と心から願っています。

 私の願いが、皆さんに少し通じたでしょうか。私は世間の常識に反することを申し上げております。ですから、私の申す結論に対して、「とんでもない。長岡は0の段もわからないのか。0で割ることが不可能であるということがわかっていないのか。そんなこともわからずに数学について語っているのか。」そういうふうに非難する人が出てくるかもしれないとさえ私は恐れています。私のこんな簡単な話でも、実は正しく理解できる人が決して多くはないんだということを、私は覚悟しています。でも、ちょっとでも多くの人が、少しでも1人でも2人でも3人でも、そしてその人たちが私の言葉を理解し、その周囲にいる3人、4人、5人の人たちに影響力を行使し、その周囲の3人、4人、5人の人たちがまた周囲の3人、4人、5人の人たちに影響力を行使する。そういうねずみ算が、幸運にも成功するならば、このインターネットの炎上する世界というのが、少しはまともな社会になるのではないか、という毎度繰り返す言葉でありますが、祈りにも似た気持ちでこれを語っているわけであります。

 インターネットの中には、ひどい話もいっぱいあるでしょう。しかし、「ひどい話は氷山の一角である」というふうに見るのではなく、氷山の一角として見えた水上に浮かんでいる氷山の部分であり、大部分は安定して大海の中に沈んでいるものである。暖かくなれば溶けてしまうものである。氷山の本体が固まっているところの海水中の部分であるという北極海の沿岸近くにある氷山。タイタニック号のような悲劇の元になる氷山。そういうふうに考えずに、目立っているものは所詮やがて溶けていくうたかたの代物である、というふうにおおらかに構えていただく知性の余裕、あるいはあえて難しい言葉を使わせてもらえば、寛容な知性、それを皆さんに心がけていただきたい。特に小学校教育に関しては、それを常に心がけていただきたいと願っております。

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