長岡亮介のよもやま話435「諦めないでほしいと願う大学の最初に学ぶ数学の標準カリキュラム」

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 今回は、数学を高等学校まで勉強してくると、「これでほぼ完成ではないか。あとは数学の応用が待っているばかりである。」そう考える人が少なくない。つまり、数学の基礎においてもう十分な準備が整っている。あとはロボットを作るであるとか、AIを研究するであるとか、そういうような応用分野は広がっているが、純粋な数学の理論はもうこれでそろそろおしまいではないかと感じている皆さんのために、数学については、19世紀以降のいわば近代数学あるいは現代数学、本当は近代数学といったときには18世紀以降のと言いたいところなんですが、18世紀には偉大な数学者がいて、その人で1人で数学を代表しているところがあるので、あえてそこを避けて述べましたが、実際に高等学校までの数学で、かろうじてカバーしたのはせいぜい17世紀までの数学の本当に中心的な流れの部分だけでありまして、17世紀の数学でさえ高等学校ではやってないテーマがいっぱいあります。しかし、数学は古いところをこれもやれば必要、これも必要というふうにやっていく学問ではなくて、むしろ整理して整理して極限まで整理して、これだけはやらなければならないっていう形に整理をした上で、学生にこれを勉強しなさいと提示する。これが世界の潮流なんですね。ですから私は19世紀以降とつい言ってしまったんです。

 数学的な豊かな内容に関して言えば、18世紀に開拓された数学の大部分を含めて、実は18世紀、19世紀、20世紀、21世紀の間に、数学が達成した進歩を、何も高等学校までに勉強していないわけですね。極端な話をすると、情報科学に関して言えば、コンピュータが本格的に始動したフォン・ノイマン型コンピュータっていうのが作られたのが20世紀しかも後の方、本格的なコンピュータの商業利用あるいは科学研究利用が始まったのも20世紀の中頃以降ということを考えると、情報処理に関する歴史というのは半世紀ちょっとという程度。どんなになく見積もっても1世紀。歴史をわざと古くまでさかのぼり、パスカル方計算機とかライプニッツ計算機までさかのぼったとしても、あるいは中国から日本に伝来し日本で改良されたそろばん、外国ではLiber Abbaciというような言い方が一般的なんですけれども、そのようなそろばんにさかのぼったとしても、歴史はたかが知れてるわけですね。そういうふうに考えると、情報科学、本当の意味でコンピュータあるいはプログラミング、オペレーティングシステムというのが、本格的に開始されてからは、せいぜい半世紀くらいの歴史である。長く見積もっても1世紀である。

 そういうのと比べると、数学の歴史の長さってのは桁違いであるわけです。ですから、数学を歴史的にきちっと全ての内容を学ぼうとすると、それは容易なことでないということになるわけでありますが、数学者はそれを整理して伝えるということに関しては、いわば国際的なレベルでの合意がほぼできていて、「大学に入ったならば、微積分というのをもう一度きちっと勉強しましょう」、それを解析学というふうに呼ぶこともあります。それから、「大学に入ったならば、線形代数と呼ばれるいわゆる抽象代数の最も分かりやすい一分野を教えましょう。」これが世界の大学の基本的な合意になっている。これが良い面もあり、悪い面もあるわけです。良い面があるというのは、言うまでもなく現代数学へいく一番基本的な標準コースとして確立されているということですね。悪い面というのは、数学を勉強するといってもいろいろな立場の人がいる。例えば応用数学を中心に勉強する人もいる。あるいは応用数学に至る前の数学そのものを、もう一度高等学校までの数学を少し高い立場から勉強しなければいけない、例えば先生になろうという人たちに必要な数学もある。そういう多くの数学の中で、標準的な数学のコースとして、微積分学あるいは解析学と言われる分野と、線形代数学という二つの分野、これが必須であるというのは、悪い面もあるわけですね。必ずしもそれをやらなくてもいいじゃないかという考え方もある。

 ところが数学をやっている人は、数学に関しては、よく言えば非常に誠実、悪く言えば、頑固なんですね。それを絶対にやらなければならないと思っている。もう少し弾力的でいいんじゃないかとさえ、私でさえ思うくらいでありますから、数学者の頑固さというのは、本当に群を抜いていると言ってもいいかもしれません。それくらい大学における数学の基礎というものに関しては、世界的に見てでき上がっている合意が、かなりrigid、硬いもの、硬い枠組みで囲まれている。言ってみればエビとかカニのような甲羅で覆っている感じでありますから、多くの人にとって数学が非常に厄介なものに見えます。どうして厄介なものに見えるかというさわりをお話して、皆さんが大学で数学を決して諦めないようにと激励したいという気持ちでこれをお話します。

 まず、微積分学あるいは解析学と言われる分野、これは何のために必要であるかということでありますが、高等学校までに皆さんが勉強した微積分は、微積分といっても微積分法という微積分のための基礎的な計算術なわけですね。あるいは微積分という手法を使って問題を解く用法の基礎でありますけれども、非常に狭いわけです。どういう意味で狭いかっていうと、まず理論的に非常に狭い。理論的に狭いということは、結局微積分法の初期の時代に開発された微積分法の基礎理論、「微分とは何か。積分とは何か」という問題を考えるときに、その考えを微積分法の開発者たちが考えていたようなレベルで、考えているだけであるわけです。言い換えれば、微積分法はその出来上がった出発点においてさえ、実は極めて怪しい学問であると。「あんなものは数学でない」というふうな批判を浴びたくらい、基礎が怪しいわけですね。その基礎が怪しいまま、しかしある程度これでできるだろうというふうに思われた方法、特に19世紀に確立された「極限」という方法を用いれば大体いけるだろうと思った方法を、19世紀の立場ではなくて、むしろ18世紀に戻って、あるいは17世紀に戻って「極限を論ずる」という、よく言えば健全な、悪く言えばあまりにも素朴すぎる方法で論じているだけであるわけです。

 したがって、微積分法という計算術の理論的な基礎が全然できていない。大げさに言えば、限りなく近づくという「極限」、それが一体何を意味しているか。近づいていくというときの、近づく先は一体何なのか。普通は高等学校までは実数というものを非常に安心して、その基盤的な材料として扱っているんですが、実は「実数とは本当は一体何なのか」という問題を考えると、これは数学的にというか、理論的にあるいは論理的に大変厄介な問題をはらんでいるわけです。その厄介な問題に対して、理論的に決着をつける、いわば合理化するというのは容易ならざる課題であるわけですが、その基礎をきちっと論理的に体系化するという勉強が、高校以下では完全に脱落していたということ。ですから数学である以上、そこを論理的に基礎づけなければならない。これは19世紀に流行ったスタイルで教えることが今一般的でありますけれども、ともかくその方法をしっかりと勉強させなければいけないということがある。ただ、今述べたような動機づけが、講義で話されることはめったにないので、学生諸君は何のためにこれをやっているのかということがしばしば理解できないということがあります。

 しかし、わかってしまえば何でもない理論的な基礎づけ、そういう目的のためにある犠牲を学生諸君に強いるわけです。立派な先生にもし微積分法の理論的な基礎、それを普通「微積分学」あるいは「解析学」と言うわけですが、それを勉強すれば、皆さんはこの理論的な基礎がいかに楽しい世界であるか理解することができるはずであります。そして、理論的な手法を身に付けるにつれて、理論的な手法なしには到底明らかにすることができなかったような微積分の精緻な世界に導かれていきます。私達はこれでこそ、解析学の本当に華やかな世界が開かれるんだということを勉強し、本当に微積分法を勉強してきてよかったなと思えるはずなのですが、その境地に達する前に挫折する人が圧倒的に多いのは世界的な傾向です。

 そしてもう一つ、微積分法で全く不足してたのは、あまりにも偏った単純な関数だけを相手にしてきたという問題です。特に高等学校までに話題としてきた関数は $y=f(x)$ と表現される1変数1関数、変数が1個、関数値が1個、そういう関数であるわけですが、さらに変数の個数に制限があるだけではなく、変数の種類にも制限がある。もっぱら普通に考えてきたのは実数値の変数、実変数、実数値関数 $x$ も $y$ も実数 $y=f(x)$ というものでありました。これは非常に厳しい制約で、あまりにも制約がきつすぎる。本当はまず、変数を考えるならば、複素数で考える。関数値を考えるなら複素数で考える。普通大学では $y=f(x)$ という代わりによく $z=f(w)$ というふうに、変数値を $x,y$ の代わりに $z,w$ という文字を使って表しますが、「複素変数関数」で、これが考えられるべきである。これが実は全く難しいものではなく、大変に単純で、かつ美しい世界なんですね。この美しい世界を勉強するために、まず微積分学の基礎、微積分学、解析学でこれを勉強しないと話が始まらないというところがありますが、本当のことを言うと、基礎的な学問はわかっていなくても、応用的な立場で複素変数・複素数値関数を勉強することはできるわけです。解析学という言葉も、元々はこういう複素変数・複素数値関数に対して、解析関数という言葉が使われたのが大きな動機の一つでありました。

 その解析学という言葉の土台になるくらい、この変数の関数は、美しい偉大な世界を切り開いてくれるわけですね。その世界を知らずに数学を終えてしまうなんて、人生18まで生きてまだ恋の悩みにはまっていない時代に人生を終えてしまうような、残念さが、あるような気がします。多くの人に複素変数・複素数値関数を勉強してほしい。多くの人が勉強するのは複素変数・複素数値関数と言っても、1複素変数1複素数値関数、変数も関数も1個の複素数である。そういうものであるわけですが、たった1個のものであったとしても、それが非常に美しいものるわけです。

 さらに、今述べたような変数や関数の値の個数に限界があるということ。それを述べるならば、その限界を取り払った多変数値関数の世界も当然ありうるということに気付くでありましょう。これも大変に美しい世界であり、高等学校のときには想像することさえできなかった世界です。世界のことをちょっとでも足を突っ込んで勉強したならば、そういう世界において日本の先人がいかに先駆的な業績を上げ、国際的に尊敬されているかということもわかるようになるはずであると思います。

他方、もう一つの線形代数という世界に関して言えば、線形代数というのは抽象代数と言われる世界の中で最も易しいものであるんですが、その抽象代数という世界、群・体・環とかって言われる世界でありますが、そういう抽象代数の中で、最も新しく切り開かれた世界でありまして、その応用分野が果てしなく広いというくらい重要なわけです。どのくらい応用分野が広いか。それは単なる数学を超えて、例えば皆さんが現代物理学、あるいは現代科学を考えるときに、避けて通ることのできない量子力学、そういう分野が大学には待っているということをご存知だと思いますが、量子力学の非常に不思議な世界を理解する上で不可欠の武器、それが線形代数学によって最初の一歩が与えられるわけです。線形代数学について知らないと、量子力学という現代科学の必須の武器に触れることさえできないで終わってしまう、ということがあります。

 ですから、大学の数学は楽しいことがいっぱい待っている。だから、挫折することなしに、挫折なんかしている暇はない。本当に楽しい世界がそこにあるんだ、という私の嘘のような言葉を嘘と思わずに、それがきっと本当なんだと信じてもらい、ぜひ頑張って、できるだけ頑張って、しっかりとマスターしてほしいと思います。もちろん、現代数学は決して易しくありませんから、途中で挫折したくなることもあるでしょう。わからなくなってしまうこともあると思います。構わないんです。途中で挫折しても、わからなくなっても構わない。大事なことは簡単に諦めないことです。数学は難しいから自分に向いていない。そんなふうに自分を決めつけたりしないで、頑張ってほしい。君たちが線形代数や、あるいは解析学は、大学1年生で勉強する数学である。大学3・4年になってもわかっていないのは恥ずかしいことであると思うかもしれませんが、それはそんなことは全くないということを述べて、私の話を今日終えたいと思います。

 私が大学1年生の基礎的な教養として、微積分学あるいは解析学と線形代数学が教えられるのが世界の標準カリキュラムであると申しましたが、それは大学1年でマスターしておかないと、その話を3・4年でやると、3・4年でもっと楽しい話ができなくなるという限界があるためで、本当は完全に理解するには1年では無理だろうということは、大学の先生たちもみんなわかっています。中には非常に理解の素早い人がいて、どんどんどんどん理解していくということがあるでしょう。でも、多くの人はそこでつまずきを経験するんです。つまずきを経験しても、そこにおいてどういう言葉が大切であるのかということを理解することを通じて、3・4年生で初めて講義される楽しい世界が美しく開けてくるわけであります。そのときに、大学のよくできる先生は決して「君達1・2年の数学もわかってない馬鹿な連中が、3・4年の数学なんかわかるはずがないじゃないか」とそんなふうに抗議することは決してありません。私が習った最も偉大な先生方、本当に世界に輝く先生方は、授業はとってもいつも優しくて、とっても基礎的なことから、とっても深いところまで本当に話を上手に組み立てられて、その先生たちの授業はそのままセミナリィノートとして回覧されましたけど、同時に一般の書店から書籍となって販売されたときにも、名著として名高いものとなりました。立派な先生の講義は、本当に拝聴に値する。「謦咳に接する」という日本の言葉がありますが、数学においてもまさに謦咳に接する価値のある、そういう立派な先生の授業に皆さんが接することができる幸運に恵まれますことを祈って、私のこのお話を終えたいと思います。

 決して諦めないでください。皆さんに、そういうことだったのかということがわかる日が、やがてやってくる。やがてやってくる日が多少他の人よりも遅くてもいい。ただ、やってくるまで頑張り続けるということが大切であるということ。人生死んでしまったらおしまいだという言い方があり、私はそれが嫌いですが、「人生諦めてしまったら終わりだ」という言葉、これはとても大切な言葉として、皆さんにここで送りたいと思っております。頑張ってください。

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