*** コメント入力欄が文章の最後にあります。是非ご感想を! ***
今回は少しこのよもやま話には珍しく、皆さんから見ると、いやに悲観的に映るかもしれないお話をしたいと思います。それは、私達が生きているときに、長生きするということは、それ自身素晴らしいことだという価値観の中で、長年過ごしてきましたけれど最近医学あるいは医学周辺の科学的な知見、それの発達に伴って、長生きが昔よりも少なくとも半世紀前と比べると、遥かに簡単になってまいりました。いわゆる平均寿命の延びという形で表現されることもあるのですけれど、最近になって、単に平均寿命を長くするのではなく、健康寿命を長くしましょうというような、全く人の人生のことをなんて考えているんだろうと言ってやりたくなるようなふざけた表現まで、世の中で流行するようになりました。
確かに単なる寿命ではなくて、健康で生きている寿命それが大切だっていう観点、これはとても大切なんですが、本当は健康とは何かということの方が問題で、一般に「自分は健康で大変ありがたい人生を送っている」と思っている人たちの健康さを考えると、私は少し頭が痛い。自分勝手に勝手に生きている、そういうものを「私は健康だ」っていうふうに言われると、「いや、あなたは生き方が不健康なんじゃないですか」と余計なことを言ってやりたくなる、私の中にあるちょっと意地悪なひねくれ者の精神が頭をムクムクともたげてくることがあるのですけれど、それは置いておいて、しかし、やはり健康寿命という言い方が流行る背景には、不健康寿命つまり健康でない、そういう寿命を生きている人がいる。この問題が大変深刻であるということ、その問題を提起していると考えれば、私は誠に最もだと思うんです。
私もこの年になりますと、とても大切な恩人、知人、友人そして中には私の学生だった人そういう人たちの死を、何度も経験してまいりました。特に若い人の死というのは、大変に苦痛を伴うものでありまして、何とか寿命を先に延ばしてあげたい、そういうふうに心から願うものの1人でありますけれど、しかしながら、寿命という言葉があるように、私達1人1人にとっては、どうしようもない命の現実があるわけですね。私達は、ともすると普段生きているということが当たり前のことであって、その当たり前の生命の活動、それが終わることが死だと、そういうふうに考えています。死は生の終わりであるという考え方ですね。しかし、果たしてこれは正しいでしょうか。
私のように死が身近に迫ってきて、そしてまた多くの人の死を見届けた人間の立場からすると、死は生の終わりであるという単純な結論には同意できないものを、時々感ずるわけです。どういうことかということを端的にわかりやすく説明するために、死を生の終わりと捉えない、そういう考え方の代表的なものを一つ紹介したいと思うんです。内村鑑三という明治時期の日本のキリスト教徒、プロテスタントのキリスト教徒でありますね、ですから当時のキリシタンとしては、非常に先進的な人で、しかも無教会派と言われる人でありますからプロテスタントの中でもかなり根本的な原理主義の立場に立つ大人数集まればそれで教会だという立場ではなく、1人1人がキリストと直面する、キリストと対峙する、そういうような人生を生きることを人生の一番大切なレッスンとしたプロテスタントのキリスト教徒の1人、その主導的な存在と言っていい方で、内村鑑三という方がいらっしゃるんですが、内村鑑三先生が、お嬢さんが亡くなったときに、そのお嬢さんの死、普通はものすごく悲しいことですよね、父親にとって自分の子どもあるいは娘の死、それはどんなにつらく寂しいことであったかわかりません。しかし、なんと内村先生はそのときにその娘さんの死を目の当たりにして、何とおっしゃったかというと、「万歳」と仰ったというんですね。それはどういうことかと言えば、一言で私が解説するとすれば、そのお嬢さんの死が、お嬢さんの人生の完成であったということなんですね。お嬢さんの現世、この世における人生、それの見事な完成、それを見て、内村先生は「万歳」というふうに仰ったんだと思うんです。死が生の完成であるという立場、これは現代日本人からすれば、ほとんど考えたことのない発想ではないかと思いましたので、このお話を紹介いたしましたけれども、死を人生の、この世における人生の終焉としてではなく、むしろ来世に向けての出発点として、輝かしいものとみなす。こういう考え方は中世ヨーロッパでは、必ずしも珍しい考え方ではなかったわけでありますね、であったからこそ、例えば殉教者っていうのは、自分の信ずる宗教のために自分の命を投げ出す、このことを殉教と言って、それを喜んで受け入れていったわけです。普通で言えば、自分がそのために死んでしまうということは、あり得ないことというふうに私達は考えますね、しかし、殉教者が次々と出るほど多かったわけでありますが、それは殉教という死が、実はこの世における生の完成であるという立場で考えれば、その理屈も見えてくる話ではないかと思うんですね。
今もイスラム教徒の原理主義と呼ばれる勢力の人たちが、アッラーのために死ぬこと、殉教という、これを無条件に良いことにし、そして殉教ための聖なる戦い、その中に先進資本主義国の文化というものを敵対視する、そういう思想が組み込まれているという現状を考えると、私達は現在では殉教というものをそれほど肯定的にだけ受け入れるわけにはいかないとは思いますけれども、他方で、自分の信仰のために命さえ犠牲にするという、その信仰の強さそれは、現世の生き方というものを、実はそれが終わったらおしまいだという現代の日本人が考える、「生きているうちが花よ、死んだらおしまいだ」こういう考え方と対極にあるものとして捉えなければいけないのではないかと私は思っています。
殉教が全て素晴らしいというふうに礼賛しているわけではありません。今は難しい社会情勢の中にあり、殉教といっても、一般には、しっかりと考え抜いた末でなければ殉教がまた別の犠牲者を生むと、そういうことになりかねないこういう世の中にあって、かつて日本で言えば、敵討ち、親の仇討ち、これが無条件に善なるものとして、語られていたときに敵討ちというのは、当然次の敵討ちを生むという悪循環の論理は含んでいるわけですから、そんなものを肯定するわけにはいかないに決まっていると、これはちょっと考えれば子どもでもわかるような理屈でありますけれども、そのような子どもでもわかる理屈が通じない世の中がごく最近まで日本で支配的だったということを、私達は忘れてはならないと思います。と同時にやはり死んでしまったら終わり、こういう現代日本を覆っている死生観というものが、いかに時代的に見て優れて現代的というか、今日の世界でしか通用しない価値観であるのかということも、同時に考えるべきではないかと思うんですね。
そういうふうに思う最大の理由は、私は最近いわゆる全身麻酔というものの伴う手術を受けましたから、麻酔という技術によって一時的に死んでいる、呼吸さえしない、そういう時間があったわけですね。呼吸さえ止まっている時間には、人工呼吸装置によって、呼吸が維持される。そのために、喉にですね、太い棒を挿入され人工呼吸が可能になるわけでありますけれども、喉にそんなに太い管を入れたら、当然のことながら、その後喉は痛いし、声は出ないし、つらい日々があるわけですけど、最近は麻酔もすごく発達していて、手術が終わったら、終わった途端に麻酔が覚めるというくらい、手術中は麻酔は決して冷めない、しかし手術が終わったら直ちに麻酔が覚める、そういうくらい麻酔の拮抗薬という麻酔を覚ます薬の開発も盛んで、麻酔に関しても昔と比べると、ひと昔前と比較しても、比較にならないくらい安全なものになったんだと思いますが、私はたまたま最近6時間にも及ぶ麻酔を通した外科手術を受けた関係で、当然その後の後遺症もひどくて、やはり麻酔っていうのは人間が生きているということに対しては、つらい影響を残すものであるというふうに思ったものでありますけれども、私の場合は麻酔が覚めたら、「はい、長岡さん目を覚ましてください。もう手術は終わりましたよ」とそういうふうに声をかけてもらって、「はいはい、わかりました」とこういう返事をするくらい麻酔が覚めるのも簡単になっているわけでありますけれど、しかし、世の中には言ってみればその麻酔が厳しく効いたまま生かされ続ける、そういう人も少なくないわけであります。植物状態っていうのは、言ってみれば一番その極限形でありますけれども、そこまでいかないとしても医療の力を使って生かされているという人たちは決して今少なくない。そして、その終末期の医療がお医者さんの間でも、また患者さんの間でも、患者の家族の間でも非常に深刻な問題となっている。なぜならば、終末期に入ったときの医療をもしその医療を中断すると直ちに死というものが待っている。その医療的な技術、それを継続する限り生が続いている。その生が続いている医療技術を止めると、直ちに死がやってくる。つまり医療技術によって生と死の境が分けられている。そういう異常な時代を私達は生きているということを、私達は真剣に考えなければならない。昔の人は、亡くなることをお迎えが来るというふうに言いました。つまり、生と死は自分の自由自在になるものではなくて、お迎えが来たら、お迎えに乗って天国に行く、あるいは地獄に落ちるそういう考え方でありましたけど、今はお迎えが来ない。ある意味では、お迎えが来るということを医療技術が阻止している。医療技術が阻止することができるほどに、医療技術が発達している。という現実を私達は本当に厳しく見つめなければならないということです。
私も人間の1人として、自分の大切な人、その人が自分の目の前で亡くなっていく姿もしあったならば、お医者さん何とかしてください、何とかできることがあるんじゃないですか。そういうふうに言いたくなりますよね。しかしながら、大事なことは、その人にとって、生命を維持するということが、その人の生命、命を充実させるために、その生命を完成させるために、必要不可欠なプロセスであるのかどうかということですね。反対に言えば、例えば植物状態のような形で生命を、生命だけをと言った方がいいかもしれませんが、永らえさせられるという人の人生は、ある意味で苦痛に満ちていて、その苦痛を表現することさえできなくなっている。そういう状況の中で生かされ続けるということは、その人にとって本当に幸せなことなのかどうかということを、特に家族の人は真剣に考えなければならない。そしてそれを自分の問題として、自分がその立場に置かれたときに、どういうふうに考えるかということを考えなくてはならないのではないか。私は自分の人生の数少ない経験をベースにして、真剣に考えている次第なんですね。特に最近はそういうことを考えることが少なくなくなりました、多くなったとわかりやすく言えばそういうことです。
私達は単に生物学的な寿命というものを、延長してもらうということにそれだけで幸せを感じる、そういう人生を生きてはいけない。私達は尊厳のある命と同時に、尊厳のある死というものも大切にしていかなければいけない。そのときに、一番いけないのは家族のエゴイズムだと思うんです。私自身も家族のエゴイズムというものを、自分自身の中で強く感じたものでありますけれど、しかし本当に考えなければいけないのは、患者本人のことであり、私はそのときに1人の人間の死が1人の人間の生の終わりというだけではなく、内村先生のように、その人の生命の完成であるという考え方さえきちっとしたそういう思想家がいたということを、心に思い出して、自分の悲しみをこらえながら、生きている意味、そして死んでいく意味、それを考えるようになった次第です。 これを聞いてくださっている皆さんは、皆さん多くの方はお若いので、自分の身の回りの人にも死の影が忍び寄っているってそういう状況は考えづらいかもしれません。そういうときでさえ、実は死が生の終わりというだけではないんだという考え方がある。ということは、ぜひとも忘れないでいてほしい。特に患者として病院に寝かされ続けている人その人たちの苦痛の時間を長引かせるだけのために、医療の技術、最新技術が使われているんだとしたら、それは私は生命に対して、一種の不道徳ではないかとさえ感ずることが少なくありません。このような激しい言い方をすると、多くの人からものすごく強いご批判を浴びること、これを十分覚悟しております。しかしながら、私としては、今の日本のあまりにも通俗的な生に対する見方、死に対する見方に対して、もうちょっと違う見方もありうるんだということを、考える知的な余裕をみんなで持とうではないかという気持ちを込めてこのあえて批判の激しいであろうメッセージを皆さんに送りたいと思いました。私もいつまでもこのようなお話を続けることができるわけではありません。ですからこのようなメッセージも私のよもやま話の一つとして残しておいていただきたい、心から願っている次第です。皆さんに少しでも肯定的に受け止めていただければこんなに名誉なことはありません。私としても本当に頑張った甲斐があるというものです。
コメント