長岡亮介のよもやま話433「日本の歴史や文化に根ざした芸術とかスポーツを」(2023/4/19talk)

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 音楽を始めとするいわゆる芸術の世界で、日本人を含めアジア人が国際的な舞台で大活躍する現状は、半世紀以上前のことと比較して考えると、まさに目を見張るばかりという印象をもちます。本当にバレエのような体つきの美しさが一つの決め手となるような世界において、日本や韓国、中国といったアジアの出身の若者が、世界の国際舞台、主に若手のこれからの可能性を試すグランプリというようなひのき舞台で大活躍すると、これは本当に素晴らしいことだと思います。世界の水準に日本の水準が接近してきた。あるいは日本だけではなく、アジアの水準が接近したと言って良いように思います。

 バレエとか音楽の世界、とりわけソリストと言われる最も難しい技術を問われる舞台で、日本人を初めとしてアジア人が本当に活躍している。自分たちの身近な古典作品ではないヨーロッパのものであるのに、それをあたかも自分のものであるかのように弾きこなす。ピアノにしても、バイオリンにしても、大変なもんだと思います。同じことは、スポーツの世界でも言えて、日本の選手が国際舞台で大活躍するっていうことは、私が子供の頃には、例えば陸上100mの世界で、あるいはマラソンの世界で、そして棒高跳びの世界で、そういうようないわゆる古代オリンピックの主たる世界で、日本人が活躍するっていうことは、考えられませんでした。そして、テニスのような、言ってみれば、古代オリンピックにはなかった技の世界においてさえ、日本人が、日本人出身の若者が世界の主要大会、例えばテニスで言えばウィンブルドンのような世界で活躍するということは、想像もできなかったことでした。ベスト4になったというだけで大変なことと言ったものであります。ゴルフにおいてもそうでありました。

 やがて、そういう白人が中心になって発展していったスポーツの世界においても、日本人や黒人出身のすごい選手が登場してきた。そして、本当に信じられないような成績を残していったという歴史は記憶に新しいところであります。若い皆さんは、あまり知らないかもしれませんが、黒人のテニスプレーヤーがチャンピオンシップで戦うというようなこと。それはアジア人がチャンピオンシップに出るのと同じように、考えられないことでした。いろいろな理由があるでしょうけれども、やはりゴルフとかテニスとか、それは特に恵まれた家庭で育った子弟でないと、なかなか参戦のチャンスがないということがあったんだと思います。今でも人種差別を克服したというふうに言っているアメリカにおいても、根強く残る差別はありますから、黒人がひのき舞台に出てくるということ自身が、大変なことであったわけで、かつてはオバマ大統領の登場、黒人でしかも堂々たる見識を持つ高い見識を持つ立派な政治家が登場したっていうことに対して、世界中の人々が歓呼の声を上げたわけであります。そのようなことが、スポーツの世界においては、それより少し前に起こっていた。音楽の世界においても、演奏の世界では、つまり技術の世界、音楽を奏でるっていう世界においては、人種の壁が越えられている。場合によっては、例えば有名なゴスペルというような分野では、黒人の持っているリズム感というか、音楽感というか、それが圧倒的に優れていて、その人たちによって高い芸術性を持つ音楽が発信されてきたということがあります。黒人のアメリカ南部に発した黒人文化でそれの持っている高い芸術性が注目されたということは、別にゴスペルに限らず、ロックのような文化でさえ、実はそうであったと言えるのではないかと思います。自分たちの文化的な伝統に根ざして、新しい芸術世界を切り開いたという点がものすごく素晴らしいことで、自分たちの持っている文化的な伝統あるいは伝統的文化というのが、世界的な普遍性を持つ、全ての人々を感動させる力があるということを示したというのが素晴らしい点ですね。

 翻って、例えばスポーツの世界とか、あるいはクラシック音楽を含む音楽演奏の世界において、アジア人が活躍しているのは、アジアの伝統的な文化に根ざして、それを世界に向けてその国際的な価値を訴えるというふうに出てきているのではなく、むしろ西欧人と同じようなやり方で、しかし西欧人よりもより自律的に精緻に、つまり精密に音楽を再現するというテクニックの高さでもって売り出している。そんな印象が拭えない気がするんです。自分たちの持っている歴史、文化、伝統、そういうものに根ざして、西欧の音楽と格闘し、自分なりに咀嚼し、それを解釈しているというよりは、ヨーロッパの人々が作ってきた音楽を、いわばそのまま真似して、それを表面的な技術において、より繊細に完成して、それを披露している。非常に極端に悪い表現を使うならば、一種の猿まね。普通の言葉で言えば、私達は「文化の模倣」において勝負してきているという感じで、「文化の創造性」という点では、私達はまだまだ世界の一流と言われるところには、届きづらい。そういう風土に生きているんではないかなと私は感じてしまいます。

 それは、世界を舞台に活躍している若い人々が非常に高い技術を持ちながらも、その高い技術が日本の歴史・文化というものと結合しているように感じないからです。そんなことを言われれば、私がやっている数学も本来は長い歴史の中で培われてきた数学的精神をきちっと現代の社会の中に位置付け、そして私達日本人であれば、日本人の文化的な伝統、精神的な文化と結合した上で、世界に問うという仕事ができれば一番いいのに、そのようなことをやっている数学者は、本当に一握りの天才的な数学者たちだけで、私などのようにぼんくらな人間は、やはり西欧の人がやったものを、西欧の人がやったものをよりも、より精巧により、エレガントに実現するという、表面的なテクニックで勝負しているという面があるように思います。決して芸術家や、あるいはスポーツ選手だけがそうだと言っているんではありません。私達学問人も、やはりそういう弱点を抱えているっていうことを、認めなければならないと思いつつ、しかし、学問の世界のように言ってみれば、世界共通の土俵の上で戦うという場面では、それがある程度致し方がないという面も多いと思うのですが。やはりスポーツや芸術においては、その国民性みたいなものを失わないでいてほしい。そういうふうに思います。国際性を目指して、かえって伝統を失ってしまう。そういう競技が、我が国にあったという歴史を知っているだけに、これからは、ますますその伝統的な文化の精神の中に深く根付いて、活動するということの意義を、強調していかなければと思います。

 それにしても、と思うのは、若い人たちが芸術に関して私達の時代と比べると、遥かに優れていることですね。中学生や高校生の合唱を聞いてびっくりするほど感動することがあります。なんて上手なんだろうと思います。運動においてもそうですね。高校野球を見ても、野球の道具の開発に科学の力が加わって、より面白くなったっていう面も否定できませんが、もう本当に高校生の若い選手のスイングが、立派なプロ野球でも通用するようなスイングになっている。これはもう素晴らしいことであるなと思います。同じようにフットボールでも、やはり体操競技でもですね、本当に若者たちがものすごく立派であるということを感じます。

でも、重要なのは、スポーツで生きていくということは普通はできないわけで、やはりスポーツを通して人生の大切なレッスンを身につけてほしいと私は願うのですが、それが必ずしもうまくできていないんじゃないか。ただのショーマンとして生きていくという道を選ぶことを余儀なくされる。ショーマンになれればいい方なんですが、そのように生きていくことだけを学んでいるのではないか、と心配になることがあります。そういうときに、私は、日本の歴史や文化に根ざした芸術とか、根ざしたスポーツというものがあって良いんではないかと思う次第です。

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