長岡亮介のよもやま話431「日本語は難しいのでしょうか?」

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 よく最近の日本人が言う表現に、「日本語は難しい」というのがあります。果たして日本語は難しい言語でしょうか。確かに日本語には、非常に繊細な表現を必要とする場面がないわけではありません。日本の文学が、世界で最高の水準と言えるのも、日本語のおかげではないかと思います。

 しかしながら、日本語を喋るというとき、つまり口語としての日本語というのは、決して外国人にとってマスターするのは難しい言語ではないと私は思うんです。その最大の理由は、日本語がいわゆる「助詞」があるおかげで、場合によってはその必要な助詞を省いてさえ、日常会話では十分意味が通じるということです。このようなフレックスブルなというか、でたらめなというか、言語は他に例がありません。具体例を出しましょう。例えば「わたし、お寿司、好き」という日本語。「お寿司、わたし、好き」でも、「好き、わたし、お寿司」でも、「好き、お寿司、わたし」。こういうふうにやると3の階乗つまり6通りの並べ方があるわけですが、「わたし」、「お寿司」、「好き」ってこれを並べただけでは正しい日本語にならないというのは、日本語のイロハですが、一方、そのイロハを守らなくても、日本語として意味が通じる。日本人が理解に対してそのような弾力性を持っている、あるいは寛容さを持っている。そういうふうに言うことができるのではないかと思います。

 日本語は正しく使えばとても美しい言葉であると思いますが、正しく使うためにはそれなりの練習が必要で、その練習は外国語とは異なる種類の練習になるんだと思います。例えば英語では、「Love I sushi」とは言えませんね。「Love  sushi I」これも言えませんね。順番をひっくり返すことができない言語、英語をはじめとする西欧語、フランス語にしても、ドイツ語にしても、ポーランド語にしても、デンマーク語にしても、ノルウェー語にしても、みんなその語順が非常に重要であるわけです。

 語順がものすごく自由な言語としては古代語がありまして、ギリシャ語とかラテン語っていうのはそうなんですが、日本語と同じように、その語順が自由であるのは、全ての言葉が活用する。わかりやすく言えば、「私が、私の、私で、私に、私を」とそういう日本語で言えば、格助詞とか副助詞とかって言われる言葉で区別するところのものを、名詞や形容詞の活用変化で厳格に区別することができる。したがって語順をいくらひっくり返しても、意味が正しく通じる。ですから、ラテン語とかギリシャ語の名文あるいは名演説というのは、その語順をうまく取り替えることによって、全体に韻が綺麗に踏まれる。ギリシャ語とラテン語は、現代英語のような強弱アクセントではなくて、長短アクセントですね。長短アクセントですから、まさにメロディーのように聞こえるわけですね。

 例えば、日本で“ソクラテス”という名前は、ギリシャでは“ソークラテース”というふうに、長い「オ」と長い「エ」を含んでいます。“アリストテレース”っていうのも、「リ」というのは、短い発音ですね。「ス」は子音だけです。「トテレース」の「ト」は短い「オ」です。それに対して、「レース」は長い「エ」ですね。“アリストテレース”、後ろの方にだけ長いアクセントが付く、そういう単語です。ちなみに哲学者名前を出したついでに、日本語で“プラトン”と言われている、英語でPlatoと訳されている哲学者、最も偉大な哲学者といってよい、ソークラテースの弟子であり、またアリストテレースの師であったという人でありますが、その人の名前はギリシャ語では“プラトーン”と言いますね。「オ」が長いわけです。そういう長短アクセントというのがあって、それでそれを綺麗に音楽のようにリズミカルに韻を踏んで詩を作ったり、あるいは散文を作ったりする。それが名文家って言われる人になると、その韻がとても綺麗だっていうことで、それを聞いている人が本当にいい気持ち良くなる。そういう文章になるわけですね。

 そうじゃない現代の言葉というのは、英語でも詩を書くときには、最後の韻を踏む。中国の詩と同じように、最後の音が韻になるっていうことが多いわけですけれども、そういう詩歌においては、英語であっても多少の語順の入れ替えを無理やり行ったりいたします。しかし、原則として、活用があまりない英語のような言語では、語順の変化をあんまり出たらめにするわけにいかない。フランス語やロシア語、あるいはドイツ語には多少の活用の変化が生き残っていて、特にロシア語は活用が激しいんですけど、それでも語順の変化というのに対して、それほど自由にはいかないっていうところがあります。私達が、ヨーロッパ語を勉強するときに、どうしても文節の区切りというものを意識して読まないと正しく理解できないというのは、言語の持っている本質的な属性、日本語と西洋語との大きな違いと言うこともできるのではないかと思います。

 ところで、では日本語は難しいのでしょうか?私がこのように喋っているときの、口語としての日本語は全く難しくないと言っていいですね。私に言わせると、最近の日本語、この十数年の傾向ではないかと思いますが、語尾を上げる。私は子供の頃中学校で、英語で否定疑問文とか付加疑問文とかを習ったときに、なんか恥ずかしい気がしました。「Aren’t you ~?」とかっていうふうにつける。なんかわざとらしい気がして嫌だったんですけれど、今の若い人たちは日本語でも語尾上げみたいにして喋ることは全然平気ですね。それだけではない。イントネーションだけで問題ではなくて、意図的に自分の発言を明確な主張でないかのように装う。例えば、「何とかみたいな」とか。何とかみたいというのは、本当は例えでもって、表現の不完全性を補うということですよね。「鳥みたいに飛ぶ」ということは、空を飛ぶ鳥のように自由に羽ばたいて空を移動するということを意味しているんだと思うんですが、「鳥みたいに飛ぶ」と今の若い人が言うときに、それは何を意味しているんでしょうか。私はそういうときにわからないので、申し訳ないけど今の英語で表現してくれって、学生諸君には頼むことが少なくありませんでした。特に私にとってわかりづらかったのは、「やばい」とかっていう表現ですね。「マジ」とかっていう表現です。私が真面目に喋っているんですから、「マジっすか」とか質問するのはずいぶん失礼なことだと思いますし、それ以上に私達は特別のヤクザ言葉をわざと真似して、「やばい」、これは人生にとって危機的な状況がやってくるというときにそういう言葉を発していますが、「これやばく美味しくない」、意味がわからないですね、私には。なんで「やばい」でしょうか。

 そういう意味のわからない現代表現。それが難しいというならば、確かに難しいかもしれませんが、それが、「やばい」ということの語源を全く理解せずに、ただ「とっても美味しい」という協調のための修飾、しかも活用も自由。「やばい」といえば形容詞ですけど、「やばい美味しい。」「美味しい」を形容する「やばい」は副詞でしょうか。もうこういうふうになってくるとよくわかんなくなります。こういう文法を無視した表現まで自由になるという意味で、日本語は決して難しくはなく、むしろ文法を持たない非常に原始的な言語に成り下がっているように思うんです。

 しばしば自分の意見が相手に正しく理解されないときに、日本語は難しいという人がいるのですが、それは正確には「自分の日本語表現がつたなかった。大変遺憾である。申し訳ない」というならば理解できるのですけれど、それを日本語は難しいというふうに表現するならば、「では、英語で言ってみてくれ。フランス語で言ってみてくれ」という話に、私はつい持っていきたくなってしまう。こういうのは年寄りの天邪鬼と言って嫌われてしまうかもしれませんね。

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