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今日は「流行りの日本語」について、ちょっとこれはまずいんではないかと気づいたことについてお話したいと思います。それは、「何々すれば、もうこれは今どきアウトでしょ」という表現です。「アウト」っていう言葉の英語の意味を知っている人は割と少ないんではないかと思いますが、おそらく日本人の間では、野球いわゆるベースボールで、ストライク・アウトという表現が、人々の間に根付いているんだと思います。ボールのカウントで、ストライクゾーンに入ったものがストライク、あるいは空振りしたものはストライク。そして、ストライクゾーンに入ってないボール、それはアウト。バッターがそれを見逃せば、投手の方の責任としてアウトというカウントがつくということです。
ちなみに一昔前私が子供の頃は、2ストライク3ボールと、ストライクの数を先行して言いました。大体、2ストライクと単数形で言うのもなんか変な話で、アウトの方もしばしば単数形で言われていました。日本語英語の代表ですね。それに対して、野球以外の分野でも、例えばテニスなんかで言えば、エンドラインを割ったボールは、アウトって言います。まさに外に出ているということですね。おそらく、日本人が多く使っている「それはアウトでしょ」という言い方は、野球の審判が使う「アウト」っていうのと同じ意味ではないかと思うんです。バッターが三振をすると、アウトって、それの宣告によって、バッターはいわば死を宣告される。その打席のバッティングの全ての機会を剥奪される。審判の持っている絶対的な権限ですね。
野球のようにルールが煩雑なゲームでは、審判の判定に対して、他のスポーツのように、客観的な判定、つまりビデオによる判定というのが余り多く入ってきていません。それでも、最近では少し取り入れられています。審判といえども、本当の意味で客観的に絶対的に正しく判定できるわけではないということだと思います。サッカーのいわゆるフットボールの審判の難しさは、一つの違反行為がルールに反しているか反してないかということ以上に、ゲームの流れを見て、それを違反とするかどうかということを見なければいけない。つまり相手に反則されたとしても、その反則によって味方の攻撃がより有利になるというような、相手側の反則であれば、反則として取らずに、それはむしろ片側のチームの利益になったんだから、ということで反則を取らない。そういうことが審判に求められているんだそうで、サッカーの審判というのは非常に難しいようです。ゲームの流れを読むということが求められているんだそうです。
それに比べると、野球の審判は比較的客観的に判定できる。時々怪しい審判もあるという話もよく巷で聞くことでありますけれども、一応その審判が権威をもって、正と邪、正義と悪、それを判定する。例えて言えば、地獄のエンマ様のような役割を果たしているわけです。審判の判定というのは、たとえ文句があったとしても、それに対して食ってかかると、それ以上のペナルティを負わされる。それは審判の権威を絶対視するために、審判の判定を擁護するためのルール作りも進んできたわけです。しかし所詮それは、野球というスポーツの上での審判ですから、その審判の決定がその野球というゲームの中では絶対的であったとしても、所詮ゲームの話に過ぎない。そういう意味で言ってみれば、人の人生を決定づけるようなエンマ様のような審判あるいは最後の審判のようなアンパイアではないわけですね。
システィーナ礼拝堂にある有名な絵画が、ありますけれども、それは、神様と人間との間に最初に交わされた契りを象徴しており、それがやがて最後の審判へと結びついていくという長大なストーリーの始まりを意味しているわけでありますけれども、そういう神様の審判というのは、本当に言ってみれば最終的な審判であるわけです。アウトとかセーフとかっていうのは、あなたは天国に行くか、それとも天国に行けないか。そういう審判は本当に決定的なものだと思うんです。そして、それは人間にはできるはずがない。人間が神様の代わりに人を裁いてはならないということ。これは多くの宗教が共通して教えていることで、実際には歴史上の宗教はしばしば人間がそれを司ってきましたから、人間である宗教的な権威が宗教の名において人を罰するというようなことが、歴史を行われてきましたけれども、それは宗教としての問題というよりは宗教を担当する人間の非常に情けない不完全性によるところものと考えた方がいいと思うんです。つまり、「人間が行う判断には完全なものはない」というのは、ほとんど全ての宗教において、共通して見られる非常に重要な教えの一つであると思うんですね。
私が心配するのは、「それはアウトでしょ」という発言というのは、ある意味で、全く不完全なる人間が、他の人に対して、あるいは他の人の発言に対して、「アウト」と言う、いわば最終的な判決を下す傲慢さにほとんどの人が気づいていない。しかも、それを「自分がそれはアウトだと思うという自己の責任」において正当化しているんではなくて、世間の風潮、「今どき、それはアウトでしょ」というような言い方で、最終判断の責任を人になすりつけている。これは言ってみれば、裁判官が大衆の意見を聞いて、「さあ、この者を死刑にするか。それともこちらの者を死刑にするか」と言った新約聖書の物語と同じで、自分で判決を下す責任を回避して、大衆の意見を優先するという立場ですね。
ローマの提督はそのように自分の責任を対象になすりつけたわけでありますが、今の日本の特に若い人々でないかと思うんですが、「それはアウトでしょ」と言うときに、自分の責任を具体的な大衆へとなすりつけるんではなくて、今どきの風潮という目に見えない、全く頼りにならないもの、それを根拠に判決を下している。自分が裁判官であるのに、その裁判官である自分が依拠しているものが、大衆の持っている雰囲気あるいは大衆の持っている動向、大衆の持つ空気であるということですね。
この風潮は、私は何か戦前の大政翼賛会的なものを感じて、私達日本人に特有の弱点であると思うんです。私達は決して全体主義を名乗っているわけではないのですけれども、個人主義的な思想というものの洗礼を全く受けてないために、個人で責任を果たすという自覚が乏しいのではないか。「みんなやってるよ」と、子供はよく自分の責任を棚に上げた言い方を親にするものですね。そのような幼稚な精神が、大人になっても続いているということ。このことは、国際的に見るとかなり非常識なのではないかと思います。
現在のように、その言葉遣いに対して慎重にならなければならないという風潮は、アメリカ文化の大きな影響があると思います。アメリカでは一時PC (Politically correct)、Politically政治的と訳してもいいかと思いますが、correct公正であるということですね。例えば、Chairmanという言い方。これは議長という意味ですが、別にmanっていう、「男」っていう事を連想させる言葉を使う必要はない。Chairpersonというべきであるというような言い回しであるとか、あるいは、Merry Christmas & Happy New Year年末年始の挨拶っていうのは必ずこのようなセリフで終わったものでありますけれども、の最近では、Happy Holidaysというような言い方。Christmasという言い方は、キリスト教に限られたものであるために、Christmasというのを年末に祝うというローマンカトリックの伝統を他人に押しつけるのはおかしい、という宗教的な多様性を前提にして、言葉を使わなければいけない。それぞれ、それなりに理由があって、女性を蔑視する時代、あるいは一人前に扱わない時代というのは、日本ではごく最近まで続いてきましたし、アメリカも第二次世界大戦まではそういう面が強く残っていたわけですね。それを克服しようとする運動の一環として考えれば、わからなくもない。しかし、言葉を変えればそれで男女差別の問題が解消されるというわけでは、もちろんないわけでして、PCというのは、その言葉遣いに象徴されるような、自分たちの抱える文化的な弱点、一面性を克服しようという思想だったと思うんです。
ところが我が国では、このPCの風潮が導入されるや、まるで一部の人々が言った言葉狩りのように、「この言葉を言ったらアウトだ」と。こういう非常に表面的な、私の言葉では、1億総アンパイア主義、みんなが野球のアンパイアになったように、人を裁判する。その裁判するというだけの決心があればいいんですけれども、それだけの自覚もない。せいぜい野球の「アウトでしょ」というような言い方です。こういう軽薄な言い方の中に、私達の持つ一種の文化的な脆弱性、歴史をきちっと踏まえない流行に流されるという弱み。その一つが見られるのではないか、と思ってお話することにいたしました。
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