長岡亮介のよもやま話429「重厚長大」

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 皆さんは、最近はあまり聞かれなくなった“重厚長大”という言葉をご存知でしょうか。産業の基盤を支えている一般に大企業は、明治から昭和にかけて重厚長大の分野において、基盤的な仕事をしてきたわけです。その反対に、“軽薄短小”っていう言葉があります。最近は、いわゆる経済の分野でも重厚長大の分野が苦戦し、軽薄短所の新しいビジネスの世界が活況を呈しています。

 しかし、文明論者のように、重厚長大から軽薄短小への歴史的な流れというふうに、私は捉えるのが正しいとは思いません。むしろ、重厚長大の中にあった本当に力強いものが、本来は日々自らの再生、自己再生を繰り返していかなければならない。そういうものであるのに、しばしばあまりの大きさの故に自己変革を遂げることが失敗し、そしてしばしば保守的になる。あるいは守旧的になる。今までのやり方を守る。前例を守る。こういうふうにして、新しい時代に即して意思決定が迅速に行われなくなっている日本の産業に問題があるのであって、重厚長大に問題があるのではない。軽薄短小の世界が比較的活躍が華々しいのは、いわばその Decision Making 意思決定が、非常に迅速に行われているからではないか。それに尽きるのではないかと思います。

 軽薄短小が重厚長大に勝つはずがないと私は思っているのですけれど。それは私の偏見でしょうか。私は心配するのは、軽薄短小が重厚長大をカバーするということはあり得ないということです。軽薄短小はいつまでいっても軽薄短小であると思うんですね。そして、そのことは決して産業基盤の問題を言っているのではなくて、やはり文化についても同じことが言えるということを、皆さんと共有したいわけです。

 文化においても、重厚長大は言ってみれば長編小説のようなもの。それが次第に疎んじられるようになり、軽薄短小、漫画であるとか、アニメであるとか、ぱっと見てぱっとわかる。そういう短編の良さっていうのもわからないではありませんけれども、短編であるとすれば、俳句のように凝縮することの面白さがあって初めて面白いわけで、アメリカの前大統領のように、ものすごく単純な政治的な声明を嫌というほど同じように繰り返す。軽薄短小の代表だと思いますが、そんなものが世間に熱狂的に迎えられるということに、私は現在の異様な文化状況を感じます。要するに、結論が明白で、結論に至るまでの推論も単純。したがって、よく言えば誰にもわかりやすい。悪く言えば、ほとんど物事を考えてない。言ってみれば脊髄反射で生きている。もっと簡単に極端に言えば、脊髄なんかを持ってないプラナリアのような生物のような行動判断。それでもって生きている。それがほとんどの人々に警戒されるどころか、むしろ歓迎されるという風潮。

 長い文章よりも、筆で書いた手紙よりも、あるいは万年筆で綴った書簡よりも、ショートメッセージと言われる短いメッセージによる情報発信が歓迎される。中にはそれさえも省略するために、スタンプを送ってくる。こういうものが歓迎されるような世の中になってきたことは、私は少し残念に思います。皆さんはご存知だと思いますが、スタンプには、多くの情報が盛り込まれていますが、その盛り込まれている情報を送っているときに、その情報はいわば暗号化されたコードの部分だけを送りますから、通信料としては小さい。言い換えれば、非常に貧しい情報交換をしながら、人々がそれを喜び楽しんでいる風景が、私の身の回りにも見えるのですが、私はやはりそれに対して空恐ろしいもの、恐怖に近いものを感じます。不安を感じないではいられないという気持ちです。もっと長く重々しい、そして、深い思索を必要とするものに、人々が憧れるようであってほしいと思います。

 数学の話題を出して恐縮ですが、数学ではたった一つの命題を証明するのに、1冊の本を要するというようなことはしばしばあります。そのようなものすごくパースペクティブの広い理論に接したときの喜び。その理論に単に察するだけではわからなくて、その理論の気持ちがわかったときの深い感動というのは、短い証明を「そうね。それね」って言ってわかったっていうのときの喜びとは、比較にならないくらい嬉しいものです。長い物語に感動する心、それを私達は忘れてはいけないな、と思います。

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