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今回は、私達が近年気楽に使う言葉の代表と言ってもいい「進歩」について考えてみたいと思います。科学あるいは技術は進歩する。そのことを今の人々は常識だと考えています。「進歩」を英語で言えば progress、それが前進というpro、前に行くっていうことですから「前進」、それを日本で「進歩」って訳したわけですが、果たして私達の文化・文明に進歩があるのだろうか、という根源的な問いを考えてみたいわけです。
確かに、自然科学においては進歩は確実にある。そういうふうに言って良い面があります。それは従来の見解の中に思わぬロジックの飛躍があったり、あるいは先入観があったり、あるいは暗黙の仮説が潜入していたり、ということが明らかになって、それが修正されることを通じて、より正しい認識、より普遍的な認識へと、私達が導かれる。こういうことがこの300年間の間ぐらい続いてきたわけでありますね。科学の進歩と言われているものであります。一般庶民の人にも親しみやすいのは、例えば家電。家庭に入り込んだ電化製品ですね。エアコンにしても、あるいは電子レンジにしても、洗濯機にしても、場合によっては食器洗い機にしても、そういう便利な道具が次々と発明され発売されて普及してきた。こんなに生活が便利になった。「進歩した」というふうに言います。そして、そういう生活をエンジョイしている自分たちが文化生活を送っている、と思い込んでいると思うのですけれど、果たしてそうなのかということも、ときには考えてみたらどうか、というのが私の提案です。
私は非常に接していても辛くなる。ニュースのようなものばかり。あるいはそうでないとすれば全くくだらない押し売り合戦、絶対儲かる何とかそんなものばっかりですので、そういうものから少しでも距離を置きたくて、こんなことをやっているんですが、こんなことをやる材料を集めるために、滅多にアクセスしないところにアクセスして、その情報を得るということがあります。
キリスト教の歴史の中で、ルネッサンスに先立つ様々な新しいヨーロッパ的な文化の胎動があったわけでありますが、その中で特筆すべきなのは、修道会運動と、それから聖歌、グレゴリー聖歌が日本では有名でありますが、そういう合唱の研究でありました。こんにちでは、合奏するとか合唱するといったときに、パートごとに異なる譜面、音符情報ですね。それが与えられて、それが全体として調和を奏でるという形式がもはや当たり前となっています。オーケストラという、とんでもなく多くの楽器を一堂に集めて、その演奏を聞くというような贅沢が、庶民の手に届くというところに来ています。しかし、ちょっと昔を考えると、オーケストレーションはともかく、それどころかむしろ、polyphony、音がpoly、複数ですね。多重演奏というんでしょうか、異なる例えば発生者があるいは合唱者1人1人が別のメロディーでそして別の歌詞の歌を歌うというこのpolyphonyから、近代音楽が始まったと言ってもいいと思うのです。私はこのよもやま話で、polyphonyの美しい作品について何度か紹介してきましたけれども、今日はそれよりももっと純粋なmonophonyと言われる音楽、ビザンチンのキリスト教会の中では、それがずっと長く歌われていたという話を聞いたことがありますが、本当かどうか私は行ったことがないのでわかりません。monophonyっていうのは、合唱団がいたとしても、その合唱団の全員が、同じ旋律で同じ歌詞の歌を歌うということです。ずいぶん単純な音楽だって皆さんは感じられるかもしれませんが、それが何とも心を揺さぶるような静けさを持っているんです。その持っている合唱の力というのを、私は久々に接して、本当に心が揺さぶられました。心が揺さぶられるという表現はあんまり正しくないかもしれませんね。心が鎮められたというふうに言うべきかもしれません。その美しい秩序、音の秩序というものに対して、本当に心の底から感銘を受けるという経験をしたんです。ある意味では、日本の仏教なんかでも行われる大きな式典の中で唱えられる声明(しょうみょう)も一種のmonophonyなんだなって思いましたけれども、西欧ではmonophonyの音楽は、polyphonyの音楽に、そしてもっともっと複雑な楽曲構成の音楽へと置き換えられていく。そういう歴史がある。それは、ある意味で音楽理論の進歩であるわけです。
しかし、文化としての音楽、あるいは芸術としての音楽、あるいは祈りとしての音楽ということを中心に置いて考えたときに、果たしてそれが「進歩」と言えるのか。むしろ人々の心を猥雑に掴んで、強引に自分のところに持ってくるような強制力を持った音楽になったんではないか。自発的な祈りを促すという力はむしろ失ったんではないかとさえ思いました。つまり、私達が言うところの進歩は、いわば学問的な進歩、ときには技術的な進歩、それを肯定的に見ることが大いにできる側面もありますが、一方でそれを肯定的に見てばっかりして喜んでいてはいけない。古いものの良さというものを、きちっと理解した上で、新しいものを吸収するというふうにしないと、新しいものに振り回されることになりかねない。それはちょうど世界のいろいろな事件の情報に振り回されている。あるいは振り回されるふりをして商売をしているジャーナリストと変わらないということになってしまう。
私達は、私達としてしっかりとした土台の上に立ち、そして静かに正しい判断をできるように、いつも心構えをしておくということも大切なのではないか、というお話をしようと思いました。一度でも結構ですから、YouTubeなんかで、monophonyの音楽とか、グレゴリウス聖歌とか、東ビザンツの音楽とか、そういうので引けば引っかかると思います。
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