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世相について、いろいろとうまいことを言った先輩諸氏がいらっしゃいますが、現代の世相を見てなんと表現するのか、私は大変興味があります。一時「金融資本主義」というような言葉が流行った時代もありますけれど、実はそれが表層の問題に過ぎないということは誰の目にも明らかになり、その言葉を使われなくなりました。要するに一昔前の、「生産して、価値を生み出す」そういう古典的なタイプの資本主義が終わって、金融の世界っていうか、お金の取引で金額が増えるっていう、GDPというものによって経済が図られるという考え方なのかもしれません。私が詳しい分野でないので、それ以上の説明は避けますが、金融派生商品とか、そういうものに踊った時代があったわけです。今も続いているのかもしれませんが、少なくとも流行り言葉でなくなる程度に普及したというか、廃れたというか、どちらかわかりませんけれども、そういう時代でなくなってきている。それに代わって今勢いがあるのは何かというと、ビジネス的には、製品の、あるいは商品の末端で売買を手配する人、流通というのでしょうか、それも古典的なデパートのようなシステムは次々と破綻して、ネットショッピングと言われるものが大きな割合を占めるようになってきている。このことの背景にはいろいろな問題が指摘できると思うのですけれど、やはり一番重要なポイントは、人々が本当の意味で、必要な商品を待ち焦がれて購入するという時代でなくなった。言ってみれば、どうでもいいものをちょっと買って、それで便利で満足する。小さな満足の時代に入ったということがあるんだと思うんです。本当に待ちに待った、2年も3年も待った、そういう商品に出会う喜びというのとはちょっと違う「物溢れの時代の文化」と言ってもいいのではないかと思います。
私自身はそれに加えて、今の社会を一言で表すのに、「広告文化の時代」、広告主義資本主義あるいは広告指導型資本主義というのでしょうか。お金を動かすために、そのお金を取るために莫大なお金を使う。要するに投資して回収するということですが、まず広告に多大な経費をかけるというタイプの資本主義で、これがすごく新しいと私は思うんです。昔は商品を開発してから、その商品の良さを知ってもらうために広告というのを打ったんだと思いますけども、今は商品の良さではなくて、広告の良さが商品の売れ行きを決める。そういう時代になってきているんだと思うんですね。人々が広告に対して弱くなっている。つまり、情報が氾濫する時代にあって、その情報の中で質の良い情報と質の悪い情報の区別がつかない。全ての情報が等しい強さ、等しい品質であるかのように、人々の目や耳に届いている。そういう状況だと思います。
テレビのニュースなんか見ていると典型的でありますが、世界にとって重大時というニュースのすぐ次に、コマーシャルが来る。本当にどうでもいいコマーシャルが来る。そしてそのコマーシャルが終わった途端に、今度はまた深刻なニュースが始まったり、それとは全く打って変わったどうでもいい情報、街角の情報で、そんなものが平気で放映される。そういう時代になっています。私達が情報に対して本当に積極的に能動的に関わらない限り、情報をきちっと受け止めることができない。そういう時代に入っているということ。一昔前は「情報の良し悪しを選択することが大事だ」と言われましたけど、選択していたんでは駄目なんですね。ほとんどが駄目な情報なのですから、駄目な情報を捨てて、その良い情報を自ら探し出す努力が要求される時代になっているんだと思います。決して良い情報がないわけではない。本当に大切な情報もたくさんある。にもかかわらず、それがゴミのような情報の中にまみれているということです。
こういう時代は過去にもあったみたいで、最近私は仕事の関係で、日本の詩歌に関する歴史についての短いエッセイを読む機会を得たのですが、万葉集という非常に優れた文化の世界から、古今和歌集とか新古今和歌集といった、言ってみれば技巧に凝った洗練された文化がありました。しかしその後、いわゆる俳句が出てくるまでの短歌の歴史は、それはそれは悲惨なもののようですね。瓦礫の山に例えられるくらい、多くの短歌が作られたんですが、それが今から見ても、その中で珠玉の作品を探すということはほとんど絶望的だったというくらい、たくさんの作品が作られながら、瓦礫の山でしかない。そういう時代があった。そういう時代があると、人類の文化がそれで絶えるかというと、やはり新しい良いものが生まれてくる。
俳句というのがまさにそういうものをあったし、俳句がやがて形式ばって廃れてくると、芭蕉はそういうことがないように、常に古えの伝統を守る精神と新しいものを発掘する精神、それを彼は“不易流行”と、すごくうまい言葉で表現したと思います。そうであってもやはり俳句の世界も堕落は免れなかったようで、明治になってやはり偉大な俳人あるいは歌人が出て、状況を一変させる。そういう歴史があったそうですが、そういうことを考えると、今の状況に対しても、こんな馬鹿な時代がどんどん馬鹿な方向に向かって進んでいくはずはない。そういうふうに思う。そういうふうに期待したい気持ちがあります。だから堕落するところまで堕落すればいいんだと。そうすればきっと再生の芽が出てくる。そういうふうな気もいたしますけれど、やはり良いものが先人の中にないと、新しいものは生まれるはずもないと思います。
例えば、ルネサンスの初期には、本当に「人間讃歌」というような、ちょっと恥ずかしい文化もあったわけでありますけれども、たまたま私が今朝聞いた。オルランド・ディ・ラッソ(Orlando di Lasso)という作曲家の歌曲と言っていいんでしょうか、合唱曲は本当に心を洗われる思いもしました。ルネッサンスと一言で言っても、その中には様々な層があって、本当に目立つろくでもないものと、しかし、ろくでもないものに咲く美しい花があるんですね。私達はそういう美しいもの、気高いもの、そういうものに導かれていくんだと思います。今の広告資本主義という馬鹿げた世界も、その中に何かある良いものを探して、私は必死に探して、それを求めて、それと一緒に歩んでいきたいと願っています。
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