長岡亮介のよもやま話426「日本の職人芸の素晴らしさ?」

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 今でも日本の人々がしばしば自分たちの間で口にする話題で、「日本の技術力の高さ」という話があります。日本の職人芸と言われているものの真の高さということで、これを日本人の誇らしい伝統として語る傾向が最近ますます強まっているということに、私は少し懸念を感じています。それは、日本の職人文化というものは極めて高いものであったということに、私は異論を挟むものでは全くありません。それどころか、本当に日本の科学の最先端を支えてきたのは、昔からの職人さんであったということも事実として知っています。

 これは聞いた話ですが、東京大学の化学の教室において、研究をする研究者が表舞台にいるわけですけれども、その裏に技官と呼ばれる人たちがいて、その技官の技術が素晴らしいという話です。この話は、化学だけではなくて物理でも同じく聞いているんですけれども、その理論的な学問のためには、純粋な理論は別として、実験を伴う分野、物理で言えば物性とか、化学で言えば理論化学ではなくて実際の材料化学でありますね。例えば、溶媒の研究であっても、実験を伴わないと話にならないということもあるわけです。皆さん誤解しないでいただきたいのですが、物理や化学の中にも、実際には実験を伴わない理論だけの分野っていうのがあるわけです。なぜかというと、その理論的な結論を実験的に証明するには、今のような実験装置では全く足りない。もっと巨大な装置を作らなければならない。そういうことがいっぱいあるからで、理論が実験に先駆けて、あるいは実験に先んじて進行しているということは、理論の持っている凄まじい発展可能性として、皆さんにも心に留めていただきたいと思うのです。

 しかしながらそうは言っても、やはり自然科学でありますから、単なる数学的な理論では本当は駄目なわけで、それが現実の自然、あるいは現実の宇宙を反映した理論であるということを証明するためには実験が必要なのですが、そのときに大活躍するのが技官と呼ばれる人たちで、ちなみに官というのが付くのは官僚の官でありまして、国立大学では、昔は教員のことは教官と言っていました。それに対して事務の人たちは事務官というわけですね。そして事務官でも教官でもない技官という人がいるわけです。国民の中には教官という言葉を間違えて、自動車運転試験場の教官というふうに言う人がよくいますけれども、実は彼らは民間のサラリーマンでありますので、決して教官ではないわけですね。教官という言い方に明治維新の匂いを感じていただけたら幸いですが、話を元に戻しましょう。

 ともかく、技官という人がいる。そしてその技官の作る実験装置がないと、実験ができない。その技官の技というのは、今までに作ったことのない「こういう装置を作ってほしい」という研究者からの依頼。研究者は自分の研究目的について語っているだけでありますから、それを具体的にどういうふうに作ったら良いのか、ガラスをどういうふうに熱して、どういうふうに冷ましたらいいのか、そんなことは知りません。でも、こういう装置を作りたいんだということのラフなデザインで、それを語ると、技官がしばらくして、こんなもんでどうですかねって持ってきてくれる。それはそれは素晴らしいものらしいんですね。普通の製造所に依頼しても、その精度で作ることができない。ものすごく細いガラス管とか、そういうものは技官の人は容易に作ることができる。そういうその職人芸的な技術の素晴らしさ、高さ、それは日本の高度な自然科学研究を支えてきたと言ってもいいわけでありますが、それが日本特有のものであるかっていうと、そうであるとすれば日本が科学で世界の最新国あるいは最先端国であり続けるはずですが、そうもいかないというのは、外国人は外国なりのそういう技術者がいるということですね。

 「技術は日本の専売特許である」。これは大きな驕りでありまして、日本の技術者の繊細な技術は目を見張るものがありますけれども、その繊細さを上回る力でもって、日本で実現できないものを実現していく諸外国があるわけで、私達は私達の文化、伝統、それを誇らしく思うのと同じくらい、他の国の文化、歴史、技そのものに対して敬意を払うことが、とても大切だと私は思います。ともすると、「日本の新幹線を見てみろ。こんなものを作れる国はいない」と、こういうような話にすぐなってしまうわけでありますが、あれは、国有鉄道という日本の仕組みで、ある首相の改革によって国鉄というのは今やJRという民間会社に払い下げられてしまいましたけれども、しかし、その国有鉄道の時代に、国を挙げて非常に長期的な視野に立って、地道な実験、政策を繰り返してきたことの成果であって、これはある意味では戦前から続いてきた日本の技術的な文化の伝統と言っても良い。その研究者あるいは技術者は、戦前の教育システムの中で育ってきた人。そして育ってきた人が、昭和になってから次世代を育てなければいけないとして、育てていった人。言ってみれば国鉄時代の技術であるわけですね。

 そういった国有鉄道というような発想。それが、日本の古い守旧派、古い伝統を守る派の人たちというふうに一緒くたにされて、「利権にありついている。そして厳しい資本主義の競争の中を生きていない。」そういうふうに烙印を押されて、解体されてしまった組織の中で育まれてきたものであるということ、それを忘れてはいけないと思うんです。つまり、その高い技術を実現したのは、今の日本の技術力ではなくて、かつての日本の技術者の力、あるいはそういうかつての技術者を養成した教育の力、あるいはそういう技術者を守ってきた社会の知恵。その結晶であって、決して日本人特有の器用さとか、そういうようないい加減な言葉で語られるべきではないと私は思うんです。

 そのような非常に心の狭い日本主義を語るのは、日本を誇らしく思う「郷土愛」を育てようという人たちなんだと思いますが、私も郷土愛を持つ人間の1人でありますけれども、郷土愛というのを私達が強く持てば持つほど、他人があるいは他国の人が持っているであろう郷土愛に対する気持ちも尊重しなければいけない、ということを理解しなければいけないんだと思うんです。残念ながら、日本を褒めたたえる人たちは、大体は他国の人あるいは多民族の人を軽蔑的に侮蔑的に語る傾向があります。こういう傾向は実は日本だけではなくて、世界中にあるんですね。ナショナリズム、国家主義とか国民主義とか民族主義とか、訳し方はいろいろありますが、Nationというもの、これは非常に人工的なものであると同時に、動物学的には、DeNA的にはと言ってもいいかもしれませんが、ある種の根拠を持っている。そして、長い長い文化的な伝統、それも持っている。そういう共同体であるわけですが、そのNationとして固まる。それはナショナリズムっていうふうに普通言います。何と訳していいかわからない。国家主義というか民族主義というか、いろんな訳があると思いますけど、要するにNationに帰属している人が、その自分の帰属しているNationが一番だと思う。そういう考え方です。

 日本には非常に良い訳があって、「国粋主義」っていうんですね。自分の国Nationに対して純粋な主義、その国だけをひたすら愛する。そしてその見返りに、他のNationを軽蔑する。こういう民族的な差別主義というのは、英語ではRacismあるいはRacist、民族差別主義・民族差別主義者とレッテルをはることが多いと思うんですが、ナショナリズムと、レイショナリズムっていうのは非常に近いところにあって、アメリカのような自由を謳う国でも、実は多くの民族からなっていますから、その民族間では、日本人には理解できないほどのえらく矮小な差別意識がものすごく強くあるんですね。

 例えば、日本ではユダヤ人差別っていうのはヒットラーを連想させるので、そんなことをする人はほとんどいないと思いますけれども、アメリカには、反ユダヤ主義というのは非常に強く残っている。黒人差別は日本でもすごく有名ですけど、実は黒人差別だけではない。ユダヤ人対する差別もあります。もっとびっくりするのは、アイルランド人に対する差別。日本人にとってはアイルランド人とイギリス人の区別はほとんどつかないと思うんですね。しかしながら、アイルランド出身の人に対する差別っていうのもすごくあるわけです。そしてアイルランド出身の人が大統領になったっていうことが、アメリカではかつては、本当にアメリカの自由さというのを世界に発信するのにこんな良い機会はないと、みんなが沸いた事件でもあったわけであります。

 しかしながら、とにかく日本人だけが差別的であるというふうに私は言うつもりはないということのために、今例を引きましたけれども、どの国民の中にも、自分のところが一番だと思う気持ちがある。その排他的な気持ちが高ずると、最終的には戦争で決着を付けるより仕方がないというふうになってしまうわけでありまして、私達はあらゆるナショナリズムあるいは民族主義に対して、警戒心を怠らないようにしなければいけないと思うんですね。

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