長岡亮介のよもやま話425「言語学習の意味」

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 最近は、ここでもしばしば話題としてきたことですが、英語教育に関して、外国人と英語を通じて会話ができるということが、その目標となっているようなんですが、日常的な挨拶とか、あるいは買い物とか、旅行とか、そんなときに使う英語ができるということは、あまり大切なことではないと思うんですね。

 そもそも英語が通じるというのは、世界各国だというふうに言いますけれども、やはり、もし海外旅行をするんだったならば、ヨーロッパに行ったとき、あるいはアジア諸国に行ったとき、英語で話をしなきゃいけないっていうのはやっぱり辛いことで、その国の言葉で喋ってこそ、旅行の醍醐味もあるんだと思うんです。ですから、英語というものの実用的な価値を説く人がいるんですが、確かに学問の世界では、国際学会なんかでは、英語が公用語として使われているっていうのは事実ありますが、そのときに使われる英語というのは、言ってみれば、学問の言葉としての英語でありまして、それは日常会話のレベルの会話とは全然意味が違うわけです。このことが一般の人にわかっていないので、おそらく英語教育に関する誤解が広まるんだと思いますが、日本人は概して言えば、世界の中で英語が得意な国民では決してありませんが、学問の世界、物理とか数学とか、そういう世界では、十分世界に伍して頑張っている。そういう人々がいっぱいいるんです。その人たちが、英語で喋っているわけですけど、それが流暢な英語であるかというと、実はそうではない。でも、学問の内容があるから、英語をネイティブに喋る人たちも一生懸命聞くわけでありますね。

 私の知人がイギリス、United Kingdomに留学したとき、オックスフォードにいたんですが、そのオックスフォードに私がたまたま立ち寄ったときに、一緒に町に飲みに行こうという話になっていったんですが、彼の英語は全然通じないわけです。で、私が話をしたわけですけれど、オックスフォードの数学の研究室にいるときには英語で不自由したことは彼は全くない、と言っているんですね。それは当然のことで、数学について語っているので、一生懸命外国人も聞いてくれる。世界の本当に一流の数学者が、日本人の下手な英語を一生懸命聞いてくれるわけです。そして意味が通じている。100%通じているんですね。それが町のバーに行くと、全然英語が通じない。「何でかな」と彼は私に質問したんで、「それは、君が今数学の話をしてないからだよ」って言ったんですね。

 要するに、学問の世界で言えば、普遍的な言語としての数学がありますから、それを表現するために使われる英語は、少々ひどくても全然問題がないということなんです。そういうわけで、海外で活躍しているビジネスマンあるいは研究者たちの使う英語も、決してネイティブスピーカーのように流暢というわけでは必ずしもない。それであっても十分通用する。それが日本人の多くの人は、ネイティブのように喋るということが一番大切なことであると思っていますけれど、それがそうではない。ネイティブのように喋っても、語る内容がなかったら誰も聞いてくれないという厳しい現実があるということに、もっと目を向けてほしいんですね。「こんな英語はもう今やアメリカでは使っていませんよ。そんな英語を日本人は学校で習っているんですよ。馬鹿じゃありませんか」と言う人がいますが、そんなこと言ったら、「日本人が日常生活で使っている日本語が、正しい日本語なんでしょうか」ということを反省してほしいと思うんです。こういう話は今までも何回かしてきたと思いますので、今日はこのくらいにしましょう。

 私は、外国語を勉強する意味でとっても大切な意味があることに、その言葉の多様な意味を知るということがあるんじゃないか、と思うんです。例えば、日本ではインテリって言葉がありますね。知識人のことをインテリっていうふうに言います。これはロシア語のинтеллект(インテリゲンツア)っていう言葉から由来してるんだと思います。もちろんロシア語でなくても、英語にもintelligentっていう言葉がありますね。知識がある、教養がある、理解力があるっていう形容詞です。そのintelligentっていう言葉が、ロシア語にも英語にも共通にあるってことは、共通のその祖先がいるっていうことで、ラテン語にその言葉があるわけです。従ってラテン語に由来する各国の言語に、英語のintelligentに相当する、あるいはintelligenceという名詞に相当する言葉があります。

 そして、intelligenceと名詞で語るときには、知性とか教養とかという意味の他に、そこから全く想像できない意味があるということを勉強することは、日本語を勉強しているだけではわからないですね。intelligenceというのは、普通は、アメリカで言う時には特にそうですが、知性という意味の他に、諜報とかスパイ活動あるいは情報収集活動、そういう意味があるわけでありまして、アメリカのCIAと言われる有名な諜報機関、スパイ組織と言ってもいいと思いますが、その一番の上部組織の “I” はもちろん、intelligenceの “I” なわけです。情報を集め、それを分析する。そういうことで諜報活動をするということです。intelligentであるということ、知性があるということを通じて、敵の動静を読み、敵の作戦を見破る。これは、近代的な戦争、むしろ現代的な戦争って限定してもいいかもしれませんね、においては、本質的な役割を果たすわけでありまして、いわゆる太平洋戦争で日本が惨めなくらい酷い敗北を決定づけるミッドウエイの戦いって言われるものは、日本の暗号が破られていたということにあったっていうことは、歴史の有名な話であります。戦争の勝敗の命運が、intelligenceにかかっている。諜報活動にかかっているということです。日本にもそういう部隊があったはずでありますけれども、日本はそれをそんなに大きく重視していなかったと言ってもいいんではないかと思いますね。第2世界大戦といえば、ドイツとイギリスが最後の最後まで戦ったと有名でありますが、ドイツの戦局が急速に悪化するのは、ドイツの暗号、大変に優れた暗号システムで、絶対解くことができないと思われていた「エニグマ(Enigma)」っていう暗号を数学者、コンピュータサイエンスと言ってもいいかもしれませんが、その人が中心になって、コンピュータまで設計して、エニグマの解読に成功したっていうことがある。

 intelligenceという言葉に、知性という言葉と、その知性と何か丸で縁がないように見える諜報活動、あるいはスパイ活動。そういう意味が潜んでいるということを知るということは、とても面白いことではないでしょうか。こういうことは役に立つというふうに思う人は少ないかもしれませんが、実は私達の一番必要としている生きていく上での教養を、広げるためになくてはならないことなのではないかと思います。言葉の語源を知ることによって、外国の言葉を持っている多義性、普通は意味が二つあるっていうのはambiguityって言いますが、最近はambiguousっていうのは二つという意味を持ってるってことですが、もっともっとたくさんの意味を持っている言葉というのは、古い言語のラテン語かギリシャから派生して、そしてそれが近代あるいは中世から、現代を通じて使われていることを通じて、いろいろなたくさんの意味を帯びるようになってくる。そういう歴史があるわけですが、そういう歴史を理解する上でもとても面白いことです。私は日本語でもきっとそういう勉強があるべきだと思いますが、日本人はあまりにも日本語が身近なので、そういうことを考えることができなくなっているんだと思います。外国語を勉強することを通じて、自分の言語の単語の持っている多義性、あるいは言語の持ってる由来を考えることができるんじゃないかと思うんですね。

 ちなみに、例えば、“さようなら”っていうのは何で“goodbye”という意味なのか。“さようなら”ってのは、“そのようであるならば”という意味で、“そのようであるならば”というその後の部分が省略された形が、今日使われている“さようなら”であると。“ありがとう”っていうのも、これが“有り難い”、有り難いというのは存在し得ないということですね。“ありえなくない”とかっていう変な日本語は今ありますけれども、その“ありえなくない”っていうのが、“ありがとう”の語源であったということ。こういうことも日本人だったならば、意外にわからないことではないかと思います。

 外国語の勉強を通じて、自分の言葉の持っているルーツ、あるいは語源、あるいはその変遷、そういったものに接近することができる。これが外国語教育、あるいは外国語学習の非常に重要な成果ではないかと私は思います。最近の話題、やたら話題となっている「役に立つ英会話」のようなものは、実は全くその場限りの役に立たないものだ、と私は思っております。

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