長岡亮介のよもやま話424「子供の頃の感動した日々、退屈した日々とまるで違う老年の日々の楽しみ」

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 若い時代のことを思い出してみると、どうやって思い出そうと頑張っても思い出せない楽しい思い出があります。それは運動会とか遠足とか、という特別の行事が控えている日の直前の晩、どうしても嬉しくて嬉しくて眠れないという経験です。嬉しくて嬉しくてなぜ眠れないか。なぜそれほど嬉しく思っているのか。運動会や遠足がなぜそんなに楽しかったのか。いくら思い出そうとしても、思い出せないんですね。運動会での大活躍が期待されていたというわけでは決してありません。運動会でみんなで一緒になって応援し、必死になって頑張って競争し、そしてその競争に敗れるかもしれない。そういう緊張感、それが楽しかったと言えなくもありませんが、勝敗の結果のことを考えると毎年毎年、運動会が楽しみで、その前の晩が眠れないということは説明することが難しい。遠足も同様ですね。遠足に母親に作ってもらったお弁当を持って行って、みんなと食べる、そのことが日々の給食とお弁当と何がそんなに違うのか。言われてみるとよくわからない。でも、山のちょっと開けたところに行って、一緒にみんなでワイワイ普段と違うランチタイムを過ごす、すごくそれが楽しかったですね。何が楽しかったのかっていうと、結局普段と違っていたということだけではないかと思うのです。

 考えてみると、私は子ども時代が懐かしい、そういう思い出があるのですが、もう一度子ども時代を繰り返したいと思うことはない。子ども時代は考えてみるとすごく退屈していたわけです。毎日毎日が同じようでいて、早く明日にならないかとか、早くお正月が来ないかとか、早く新学期にならないか。そういうふうに次の行事が待ち遠しい、そういう日々でした。学年が1学年上がる、これがものすごく楽しいことでした。だからなんだっていうことではないのですけれど、要するに時間がとってもゆっくり経っていた。そしてその時間の経過に、自分自身がイライラするほどであった。早く時間が経ってほしいそういうふうに願っていた、きっとそうではないかと思うのです。なぜかっていうと、今は下手するとお正月になった次に「あれ一昨日、この間お正月過ぎたんじゃないなかったっけ」というくらい、前のお正月と新しいお正月が一瞬にしてくるわけですね。もう待ちに待ったお正月という気分ではない。子どもの頃と明らかに時間の経つスピード、それが違う。そもそものスピード、速度という概念は、時間で割ることによって出てくる概念ですから、時間というものを定義するのに、速度を考えるということは、数学的には馬鹿馬鹿しいことであります。しかし、時間が経つ、時間が過ぎていく、その速度が子どもの頃はすごくゆっくりしていたという、科学的にあまり合理的でない表現をあえて使ってでも表現しなければならない世界がそこにある私とは感じるのですね。

 子どもの頃は時間がゆっくり経っていたということです。そして、時間がゆっくり経っていたからこそ、日々の日常というのが退屈な日々で、ものすごく新しいことが起きない限りは感動的じゃない、退屈な日常になってしまっていたということです。私が勉強しない子どもであったからだというふうに言われればそれっきりでありますけれど、まさにそうでありましたから、でもたとえ勉強していたとしても、私の小学校時代を考えれば、勉強するということの意味がわかってなかったわけですから決して勉強する日々が毎日毎日驚きや感動に満ち満ちていて楽しかったということは全くなかったと思うんですね。平凡な毎日が、昨日がそうであったように今日がそうであり、今日がそうであったように明日もそうであるという感じに、いわば平板に続いていた、そういうふうに思います。子どもの頃そういう時間を、うんざりするほど経験していますから子どもの頃に戻りたいと私は思わないわけです。あの毎日毎日を退屈して過ごしていた、その日に戻りたいと思わない。

 私は最初、運動会とか遠足が夜眠れないほど、明日のことが楽しみで仕方がなかったというのは、やはり運動会や遠足が、非日常的な出来事であり、それが私の退屈な日々に対して、それとは全く違う画期的な日々、輝ける日々であったからに違いないと思うのです。喜びとか感動とか、嬉しさそれに満ち満ちた日々、それがその非日常的な日々であったわけです。同じように夏休みの始まりの日とか、冬休みの始まりの日というのは、やはり感動に満ちた日々の一つであります。それと同じように運動会や遠足もそうであったということですね。そういうように特別な行事がある日だけが非日常的で、普通の日常的な日々の中に、毎日新しいことに出会う喜びとか、新しいことを知る喜び、新しいことに感動する喜び、そういうものに目覚めていなかった。愚かな自分の少年時代がそこに思い出されるわけであります。ですから、そういう子ども時代をもう一度過ごしたいとは思わない。

 それに対して、毎日毎日が日々感動であった時代、私にとっては大学の初年級の時代が、特にその時代でありますけれども、本当に毎日毎日が楽しくて楽しくて仕方がなかった。本を1冊読む度に自分はその1冊分だけ、確かに自分自身が賢く成長している、そういう実感があって、その本を読む前の一昨日の自分と今日の自分とはまるで違うとそういうふうに感じていたものでした。そういうふうに自分自身が変わっていくということを感じるそういう日々は、とても充実していて、過ごしていて楽しいだと思います。そういう楽しい興奮に満ち満ちた日々これが青春時代を過ぎると、だんだんだんだん減ってくる、というのも事実でありまして、なぜ減ってくるのか、それは多くの体験、多くの知識を当時より得て、新しく得た体験、新しく得た知識、それが本当に目覚ましく新しいものであると、そういうふうには思えなくなってきてしまうということがあるのだと思うのですね。

 年を取ってきて、再び子どもの頃のような退屈な日々に戻りつつあるのかと思うと、年をとるのは嫌なことだなと思うのですが、一方で、年を取ってきて若いときの日々とは違う喜び、それを発見すると、年を取って人生を見る眼差しが少し変わってきた、そのことが、また一つの新しい発見として嬉しいことのように思います。例えではありますけど、春の若葉の美しさに感動することは誰でもできることだと思うのです。ところが、例えば紅葉の季節、秋の紅葉の季節、葉っぱが落ちるわけですね。葉っぱが枯れて落ちるとき、それは木が自分の生命力、それを維持するために木がわざわざ捨てる、そういう行為に及んでいるわけですが、そのときに木から切り落とされる枯れた葉っぱ、それの持つ色合いの何とも言えない美しさ、そういうものがわかるようになるというふうに言えば、年を取ったときの新しい感動というものをちょっと美しく、ちょっと飾りすぎているかもしれませんが、表現できているのかもしれないという気がいたします。そういうわけで、若い頃にはわからなかった年を取ってからの喜びの日々もある、ということを、敢えてお話させていただきました。

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