長岡亮介のよもやま話423「私の生きる喜び」(2023.10.05talk)

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 人生ではいろいろと嬉しいこと、悲しいこと、楽しいことありますけれど、やはり何といっても一番なのは嬉しいことですね。私がつくづく生きていてよかった、嬉しかったと思うのは、やはり若い人と話して、その人から「とても感動した」というような反応をいただくときです。といっても、私は人を感動させるのがうまいわけではありませんし、ましてそういう話を組み立てるのが上手いわけでもありません。しかしながら、私は私なりに心を込めて、おそらくその子たちが知らないこと、あるいは聞いたことがないこと。それを伝えたいと願っているんです。そしてそれがたまたまうまくいったときに、若い諸君に、「そうだったんですか。わーっ本当にすごい」って言われると、もう舞い上がってしまうような気持ちになります。

 TECUMというNPO法人が、ジョイントプロジェクトとして一緒にやっている「新しい中等教育の姿を模索する」という試みは、知識を伝えるのではなくて、自分たちで考えるということを、子供の頃から経験する。つまり、情報伝達としての教育ではなくて、情報を自ら発信するということの難しさと、それに成功したときの喜び。もっと平たく言えば、例えば数学で言えば、今の学校教育は数学で問題の解き方あるいは公式の使い方を手取り足取りで教えるという教育ですが、そういうことを一切やらない。むしろ、定理、定理を発見するっていうと、ちょっと大げさなるかもしれませんが、公式を発見する。あるいは、問題の解法の種あるいは仕掛け、それを見破る。それを人に教えてもらってやるのではなく、自ら発見する。そして、それが発見できない子も、他の人が発見できたならば、その発見の喜びを共有する。そういう新しいタイプの教育を開始したのです。

 それが約2年半くらいの実践が積み重なって、最近のことですが、数ヶ月前、そして1ヶ月ほど前に、その子供たちが集まっていろいろな話をする機会を得たのですが、本当に嬉しく思いました。それは、私は自分の孫からおじいちゃんと言われても、格別に嬉しいと思わないんですが、そのはつらつとした青年たちから、「私達は先生の子供」って言ってもらったときは、なんと生きていて良かった。そういうふうに、思いました。私は、自分の人生の生き方の選択の中で、お金とか地位とか名誉とか、そういうものと無縁に生きてきたと自分では思っておりましたけれども、本当にやりがいのある人生を最後まで貫くことができてきたということに対して、いつ死んでももう悲しくはないというわけではないんですけれども、自分の人生の継承者達が生まれているということに、喜びを感じた次第です。

 おそらく多くの人は、自分の子供あるいは孫に、そういう夢を託すのでしょう。私もそういう夢がないわけではありませんけれども、息子には息子たちの生き方があると思うし、まして孫たちが自分の思う通りに生きるわけではない。そういうことで、親としてあるいはじいさんとしての権利を行使しようとは全く思っていません。そうではなくて、やはり、人生を生きるときの思想というか、その思想というのはthinkingの意味の思想であると同時に、志す操っていう「志操」という言葉がありますけれども、人生を生きる志操を、私は私の先生から受け継ぎましたけれども、私の小学校の本当に心から尊敬している恩師、その先生から受け継いだ気持ちを次世代に伝えることができたっていうこと。これは本当に大きな喜びです。

 皆さんもぜひ、そういうような喜びに満ちた人生を生きてほしいと願っています。人よりは得をした、出世をした、そんなことでもっていちいちうじうじする。そういうような情けない人生ではなくて、本当に誇りを持った人生を生きていってほしい。人より競争に勝ったとか、人なんかで得をした、儲けたと。そんなことではなくて、心のうちから発生する、あるいは湧き出る、あふれ出る、そういう喜びに満ちた人生を生きてほしいと願っております。何か今日の皆さんへのお話は、何となく遺言のようになってしまいましたけれども、私が心から願っていることについてお話いたしました。

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