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今回はちょっと若い人からは出ない発想、老人らしい発想の話題を提供したいと思います。私達老人は、長生きをするということ、それは生命が延長されるということですね。そのことと死が遠ざかるということ、それをほとんど区別せずに使っているふしがあり、死が遠ざかると生が伸びていると思ってしまう。これは、現代社会、特に日本社会を覆っている非常に大きな誤解だと思うのですけれど、どうもそのことがよくわかっていない。あるいはよく理解されていないと思うんです。
その理解されない大きな理由は、そもそも生きているとはどういうことか、まして、死ぬとはどういうことかについて、私達はほとんどきちっと考えたことがない。多くの人が死んだら終わりと考える。生の終わりが死だ。そういうふうにしか捉えていないからだと思うんですね。「生の終わりが死ではないのか」と私の今の命題に対し、「何を言ってるんだ、長岡は」というふうに言う人がいるかもしれませんが、死というものを生とどのように関連づけるか。それについては、昔からいろいろな立場があったわけです。「生の終わりが死である」というのは、近代的な世界で生きている多くの人に共有されている死生観の基本であると思います。
反対に、中世ヨーロッパ、特に敬虔なキリスト教徒の世界では、死というものを「生の完成」というふうに捉えている人々な少なくありませんでした。生というものが死によって完成する。この考え方は、おそらく日本人には通じない、理解されない考え方だと思うんですけれど、ごく私達に近い日本人においても、有名な内村鑑三という日本の明治期のプロテスタントのクリスチャン、無教会派という非常に私の言葉から言うと原理主義的なキリスト教思想にきちっと生きた人たちでありますが、その無教会派のリーダーの一人であった内村鑑三先生は、お嬢さんが亡くなるという、普通の意味では人生の不幸を前にして、お嬢さんが亡くなったことに対して、内村先生は万歳とおっしゃったんだそうです。万歳というのを叫ぶ内村先生の心の内に、寂しさや悲しさが全くなかったとは私は考えませんけれど、その悲しさや寂しさを乗り越えて、生が完成したということへの喜び、それを万歳という言葉で表現した内村先生の思想。これは本当に真面目な明治期のプロテスタント的なキリスト教徒の考え方を代表したんじゃないかと思います。
「死を持って生の完成とみる」という考え方で、死によって生が完成する。そして、キリスト教で言えば、肉体の復活があって、生命がもう一度永遠の生命として蘇る。こういう死生観を持っているわけですが、現生の終わりのある生は、ある意味でその世に生きるということの完成を持って、実は永遠の死に対する重大な準備が完成するという思想だと思うんです。そのような立場に立つと、死というのは、悲しく寂しく情けないものであるという一面の他に、「その人がこの世における生命を完成したということを、心から喜ぶという側面も持っている」という考え方がありうることに気づくわけです。私は「死が生の完成である」という主張を皆さんに説得したいのではない。そういう考え方もあるということです。
そして、そのような考え方もあるということにどういう意味があるかというと、死が全ての終わりであるという立場で考えると、ともかく死をあとに先延ばしする。生を少しでも長生きさせる、そのことが無条件に良いことのように言われ、そのことを担当する医療あるいは医学に、人々の大きな期待が寄せられるわけでありますけれども、私は、人々を死から救うということが医学の使命であるとすれば、医学はその使命を果たしたことがかつて一度もないという厳然たる事実を指摘しなければならない。言い換えれば、医学は人々の生命を永遠にするという戦いに対して、常に敗北してきたということです。どんな健康な人も必ず最後に死ぬ。いかなる医療をもってしても、その戦いに人が勝つことはあり得ないということ。そのことを私達はもう少し真剣に考えた方がいいんではないでしょうか。決して人間は永遠に生きるわけではない。いつか必ず死ぬ。いつか必ず死ぬということを思って、それが寂しいことであるとか、儚いことであるというふうに捉える立場もちろんありうると思いますけれど、いつか必ず途絶えるからこそ、生きていることに価値がある、という考え方もあるわけですね。
例えば、お花をやっている方であれば、花を生ける。生けた花は非常に美しい、素晴らしいですね。そこにある種の生命の躍動がある。しかし、もしそのまま生けておけば、1週間もたてば、すっかり生気は萎えて、そこには枯れた花、萎れた花が残るわけです。花は必ず枯れる。永遠に生きる花というのが開発されて、贈り物などに重宝されておりますけれども、永遠に生きる花は本当に美しいのかというと、そうではないですね。花は命があり、枯れる命を持っているからこそ、花に対して私達はより一層の哀惜の念を持って、花の美しさを愛でるんだと思います。永遠に原形をとどめる花は花のミイラでありまして、花のミイラが全く醜いと私は断定するだけの勇気はありませんけれども、そこに命の輝きがないということは紛れもない、ということを私達は理解した方がいいと思うんです。
大切なことは、命が永遠に続くということではなく、いつか潰える有限の命、限りのある命。それは生物としては、世代を継いで継続されるという生命独自の論理もあるでしょうが、世代を限ってみれば、誕生してきてやがて死ぬ。それが生命としての最も基本的な論理あるいは倫理といってもいいわけで、もし倫理という言葉をあえて強く使うならば、生命を本来の倫理に逆らって永らえさせること、本来死を迎えるべき生命を医療の力を持って永らえさせること。これは生命の倫理に反することでありうるのではないか。私はそう考えるわけです。というのも、私はこの年ですから、多くの恩人、大切な人の死に接してまいりました。そして、非常に不思議なことに、私はある時に気がつきました。医学が進歩した。大変に良い進歩した。今までだったらばとっくの昔に亡くなる人が、ずっと生きながらえることができるようになった。そのことをもって医療が進歩したと言うのですけれど、もしそれを進歩という肯定的な言葉で語るとすれば、その肯定感の背景に、実は患者の苦しみを犠牲にして、という裏の側面を私達は軽んじているんではないかと思わざるを得ない場面に、たくさん遭遇してきたということです。いろいろな先端的な医療によって、病気のもとになるものを手術で除去し、必要な薬を投与し、場合によっては、人間の基本的な生命活動の源となる栄養とかミネラルとか、そういう生命の根源的な活力要素も外部から注入する。根源的な活力要素の中には、私達になくてはならない酸素というものもあるわけでありますが、そういうものさえ人工的に投与するということによって、わたしたちの命を永らえさせるということに成功してきている。
それが一時的なものであり、その一時的なものを通り過ぎて元の生活が戻る、というならば結構のことかもしれません。つい最近私も全身麻酔っていうのを経験して、全身麻酔っていうのは、言ってみれば一時的な死なんですね。人間的な生命としては心肺呼吸も自力ではできなくなる。そのために人工呼吸というのをするわけです。人工呼吸をするために、気道の中に太いパイプを詰める。そのために人工呼吸から覚めた後も、声帯がしばらくおかしくなって、声が出ないっていうことがあるわけです。そのような本当に機械的な生命維持までも、やすやすと可能になる。そういう時代になっています。驚くべきことに、そのように一時的に死んでいる生命が、拮抗薬って言われる薬を投与された途端にすぐに目が覚める。そういうふうに麻酔もものすごく進歩してきているわけでありますね。麻酔による弊害を最小化するように、医療は進歩してきている。
でも、本当に医療が進歩した人間が、死という生命の終わりから解放される日が来るんだろうか。というと、そうではない。生命が長くなればなるほど、もしかしたらそれは生命の充実へと繋がるのではなくて、むしろ医療のために生命活動と言われるものが長引かされているだけで、患者自身としてはもはや生命活動を失っている。失っているにもかかわらず、失わせてもらえない。そういう状況が続いているという可能性もあるのではないか。そういう現代医療の持っている、言ってみれば残酷な側面にも目を向けなければいけない。もちろん、残酷な側面だけではなくて肯定的な側面もいっぱいあるわけです。その肯定的な側面は多くの人がみんな言うので、私はあえて無視して極端に否定的な側面だけを強調しているようになっているわけですが、あえてそのような否定的な側面を私は口にしなければならないほど、現代医学はカッコつきではあるけれど、進歩してきているわけですね。
死を忘れた生命というのは、本当はドライフラワーっていうか、あるいは永遠の花と同じように、本当は生命を凍結されている。決して生命が永遠に続いているわけではない。そういう命ではないかと思うんです。命は必ずいつかは終わる。そのことの中に、命の美しさも儚さも悲しさも喜びもみんな凝縮している。そのことを私達は忘れてはならないと思うんですね。とりわけ、そういう臨終の人を家族に抱えている人々にとって、かけがえのない家族が亡くなってしまう。そういう瀬戸際に追い詰められたときに、少しでも長生きしてほしいと思うのは、人々の常識的な心の判断ですね。
しかし、ここは本当に哲学者のように、人々が人間の死と自分の家族の死と、きちっと向き合う。そういうふうにたまにはなるべきではないか。そう思うんです。病院の収入を上げるために、もし臨終の床にある人が、死の苦しみを長らえさせられているんだとすれば、それは残酷なことではないかと、ときには考えることが大切ではないか。私がこの頃自分の死が身近に近づいてきたということでもって、また大切な人と思ってきた人々の死が続くこと、それを前にして考えていることについて、少し過激かと思いますけれども、あえて皆さんに考えるきっかけとして、お話しさせていただきました。
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