長岡亮介のよもやま話421「大学生の学びへの姿勢の今昔ーー深刻なこれからの日本」

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 日本の大学生は勉強しない。これはしばしば言われるセリフです。日本の大学生は、本当に勉強していないのかと問われると、私はそもそも日本の大学は、GHQによる戦後始まった新生学制において、もはや大学は大学でなくなってしまったのだ。したがって、その大学の学生に昔の学生がやっていた勉強を求めることがそもそも無理である、という当たり前の結論をまず繰り返す失礼をお許しいただきたいと思います。

 そもそも、戦後の大学というのは、いわゆる旧制、戦前の日本の学制において高等学校、その高等学校というのは、今の高等学校とは全く違っていて、いわゆる旧制の高等学校というのは、しばしばナンバースクールっていうふうに言われましたが、第1高等学校、第2高等学校、第3高等学校って番号がついていた。それぞれ1校、2校、3校、4校って番号がついていた。そういう番号はつかない高等学校の中にも、特別の高等学校がありまして、ナンバースクールでない旧制高校というのはあったわけです。その旧制高校を元にして、その旧制高校と昔の帝国大学を合体させた。帝国大学は完全に崩壊しているわけですね。帝国大学は廃止されたわけです。しかし、帝国大学の先生たちの首を切るということもなかなかできません。というわけで、いわば旧制の高校と旧制の帝国大学をくっつけた形で、新制大学というのがスタートしたわけであります。当然、旧制高校を大学に昇格させるわけでありますから、国立の旧制高校だけに昇格の良い思いをさせるのはおかしいという議論は当然あったわけでありまして、当時専門学校と言われていた学校、特に重要な専門学校としては医専、医学専門学校あるいは医療専門学校、お医者さん、臨床医を作るための学校、あるいは工業専門学校、商業専門学校、いろんな専門学校がありました。そういう専門学校も大学に昇格するわけでありますね。そういう専門学校、特に医専から昇格した大学では、医学部が依然として大きな太い伝統として中心となるという、戦後の馬鹿馬鹿しい時代が続いてきたということは医療関係者には、医専を継いできた大きな国立大学の医学部が未だに大きな地位チを占めているということでもって、名前を出さなくてもおわかりになると思います。国立の専門学校も大学に昇格しました。いくつかの学校と統合併合することによって、大学に併合したわけですね。

 ここで非常に深刻なのは、小学校や中学校の先生を作るための師範学校っていうのが全国にあったわけでありますが、その師範学校というのは、いわば軍国主義の精神を鍛えるための国民学校でありましたから、GHQによって師範学校の廃止っていうのは、もう第一に出たわけでありますが、その師範学校を廃止したら、戦後民主主義の教育を担う先生がいなくなるということでもって、急遽戦後の民主主義教育を担う小中学校の先生を養成するための新制の教育学部という大学が、多くの地方の国立大学の中に統合併設されることになるわけです。こういうふうにして、新制大学というのは、昔の専門学校や師範学校と呼ばれる大学とはちょっと異なる職業学校をベースにして作られるわけです。職業学校であるならば、当然その職業人のためのふさわしい基盤的な基礎技術・基礎教養を身につけさせるということが目標となるわけでありますけれども、そのように多くの組織が統合した大学においては、新制大学においては、その統合されたところの基礎教養というのは一体何であるべきかというような議論を、じっくりと煮詰めるための時間もなければ力もない。要するに寄せ集めで適当にスタートする。そういうようにして戦後スタートするわけでありますね。

 一方で、3、4年生になったらば、専門の教育をしなければいけない。それぞれの職業学校の使命を帯びて、職業にふさわしい専門教育が、そこでにわか繋ぎのようにして繋げ接続されるということになります。そうなりますと、基礎になる基盤的な基礎教育が何であるかもはっきりしない。そうであるからといって、にわかじこみの職業教育、それが何をやるべきかということについてのカリキュラムもきちっとできていない。そういうところで新制大学がスタートするわけでありますから、大学に入った大学生たちは自分たちも何をやっていいかわからない。かつてのナンバースクールで行われたような基盤的な外国語教育、ドイツ語とかフランス語とかの基盤的な教育、それはナンバースクールであったからこそ可能であった教育でありましたけれども、全国の一般の大学にその外国語教育を押し付けて、総合全ての日本の大学において、外国語教育がナンバースクールと同じようなレベルでなされるはずがない。

 ナンバースクールの学生でさえ、デカンショ・デカンショで1年暮らす、その程度の学力であったわけですね。デカンショっていうのは聞いた話ですが、デカルト・カント・ショーペンハウエルって話ですから、現代哲学の基礎を作った人々の名前であるには違いないですけど、なんとしても哲学の教育としても、語学教育としても、極めていい加減であったということでありますね。ナンバースクールにおいてさえそのレベルであったことが、全国の新制大学に普及したときに、基礎教育あるいは教養教育というのが理想的になされるはずもない。大学が何をやっていいかわからないのですから、学生さんたちが何をやっていいかわからない。何をやってわからない先生たちは、学生さんたちが何をやっていいかわからないことに対して極めて深い共感を持って眺めますから、学生たちが右往左往してきちっと勉強しないということに対しても、「君たちは一般教育として、総合的に学問を身につけなければならない。たくさんのことを勉強しなければいけない。短い期間に勉強し、やがて専門家にならなければいけない」と考えれば、先生方も寛大にならざるを得ませんね。そういうふうにして訳のわからない基礎教育の時代を過ごすと、その基礎教育の時代を過ごした者たちが、それからの職業教育に向かって準備ができているはずもない。

 当然専門教育は、つぎはぎだらけのいわゆるカッコつき「専門知識」を覚えるだけ、本当に丸暗記の教育になるわけです。医学部においてつい最近まで行われていた馬鹿みたいな教育、今の医学部の大学生のための医師国家試験の問題なんかを見ていますと、その時代の教育のレベルを彷彿とさせて、非常に残念に思います。およそ学問性あるいは学理性というものは一切ない。学理性の無さは医師国家試験だけじゃなくて、各種専門医の試験を見ても、似たような文化が継続していると言わざるを得ません。

 要するに、根本的に物事を考えて勉強するという学問の出発点にあるもの、それが哲学。哲学っていうと日本ではえらく誤解される。「人はいかに生きるべきか」ということを考える勉強だ。それも間違ってはいないんですが、結局のところ、「私達が物事を理解するとか、知るとか」ということはそもそもどういうことなのか。それはいかにして可能なのか。いかにして不可能なのか。可能であることと不可能であることの限界は、どこにあるのか。というようなことを学問の具体的な場面に応じて考える。これがフィロソフィーでありまして、ソフィア、知恵を愛するというものであるわけですね。ですから、未だに全ての学問のための学位には、Ph.D.ドクターフィロソフィーという言葉が使われていて、今ではメディカルドクターMDという人たちもすごくアメリカなんかでも増えていて、日本はほとんどそれになっておりますけれども、アメリカでも医学のためのきちっとした学位はPh.D.っていうふうに言うわけですね。なんでPh.D.というか、それは単なる技術のための専門職ではなくて、Doctor of Philosophy哲学博士であるという尊称であるということです。

 最近では数学でPh.D.を取ったからといって本当に学位が深いか、物理においてPh.D.を取ったからといってそうであるかというと、怪しいところはもちろんあるわけで、Ph.D.に関しても変質しているということは認めざるを得ませんけれども、そういう伝統があるということだけは覚えておいた方がいいと私は思うんですね。本当はPh.D.という学問を残している大学、アメリカなんかは典型的でありますけれども、有名大学というところはみんなそうですが、4年生の間は全部基礎教養なんですね。日本の旧制の大学と同じなんです。本当に基盤的な教養を身につけさせる。日本で言えば旧制と一緒、あるいは旧制高校と旧制大学を一緒にしたものと一緒と言った方がいいかもしれません。

 典型的なのはMITという日本では有名な大学がありますけども、MITっていうのは日本でやったら有名なんですが、アメリカでは必ずしも尊敬される大学ではなくて、なぜかって言うと、MITというのは、Massachusetts Institute of Technologyなんですね。テクノロジーのためのインスティテュートに過ぎない。ユニバースじゃないんですね。なんでMITが作られたかというと、アメリカの東海岸からアメリカ新大陸の開拓が始まったときに、アメリカのエリート大学は東海岸に集中していたわけですね。そういうエリート大学において、実は大陸の伝統、特にイギリスの伝統オクスフォードやケンブリッジの伝統があって、工学部が大学の中にないわけです。工学部がないというのは、大学としていかなるものか。アメリカは非常に進取の精神に富んでいますから、アメリカにふさわしい大学があるべきである。そういうふうに考え、「工学部テクノロジーというものに関しても、学問として、職人を作るテクノロジーではなくて、学問としてのテクノロジーがこれからのアメリカにおいて必要である」というのがMITを作った基本的な精神でありまして、ですからMITていってもテクノロジーの大学かっていうと、全くそうではなくて、一般教育というものに力点を置いていて、少なくとも大学の4年間においては一般教育が他の大学に引けを取らないくらい充実している。ハーバードとかプリンストンとか有名な大学と引けを取らないレベルの一般教育をしているわけです。しかしながらGraduate School大学院に行きますと、それは他大学と同じようにその分野に特化した専門教育っていうのが徹底してなされるわけでありますね。というわけで、大学は一般教育に特化している。

 アメリカにおいてもレベルの低い大学になりますと、大学の初年級からいわゆる専門的な職業教育が始まるわけです。それは当たり前で、職人教育をするわけですから早くからやった方が身に付くっていうことがあります。そういう意味で、アメリカにおいては大学のレベルによって、自分たちがなすべき教育の目標は何であるか。アメリカの教育のゴールは何か。Aimは何か。そういうことがはっきりしているわけです。日本の大学のように4大が全て綺麗事で、教養人として立派なもの、そして専門人として引けを取らない知識を謳う。そういう馬鹿なことはない。アメリカにおいては、例えばMITのような大学でさえ、4年間においては徹底した一般教育がなされる。

 そして、私自身がMIT学長とインタビューして、本当にびっくりしたことは、「MITは、MITの卒業生に対して非常にプライドを持っている。MITの卒業生として他大学の学生に引けを取らないだけの教養を、基盤的な教養を持っている。それがMITの卒業生としてのプライドである」と。そして、一方、「MITのGraduate School大学院に関しては、どこの大学よりも優秀な入学生を集め、どこの学生よりも優秀な研究者を世に送り出す。これがMITの誇りである」とこういうふうにして、大学と大学院の役割を明確に分けている。もちろん当然専門がありますから、その専門分野によって、大学4年生では4年生になるに従ってだんだんだんだんその色が染まっていくっていうところはあるんですけど、大学としての使命、大学院としての使命がとりあえず明確に区別されているんですね。したがって、大学生もやるべきことは、ものすごくはっきりしている。大学の先生たちが、自分たちが教えることが何であるか、自分たちが教えた学生、育てる学生、卒業生の目標とするレベルがどんなものであるか、それが不明確であるっていうことはあり得ないんですね。

 日本の大学であれば、4年間いて入学金等学費を納めてくれれば自動的に卒業させる。そういうのとは違う。この知識、この技術、この学識、それを持っているということが、学生に課される必須の目標であるわけです。ですから、体育推薦というのが日本の大学と同様にあるのは当然ですが、体育だけやっていたらそれで卒業できるというような大学は、よほど下の大学しかない。アメリカの有名な大学、日本で有名な大学の中で、そういうスポーツ推薦なんかやっている大学は少なくないんですけれども、そういう大学でさえ卒業生に課される目標がそれなりにはっきりしているわけです。

 だから日本の学生が勉強しないのは、実は教える側が何をもって卒業生としなければならないか、そういう教育のゴールあるいは卒業生として達成しなければいけない目標、それを教授たちが明確に持っていない。教授たちが明確に持っていないのは大学としてそれがないっていうことですね。それが第一。そして、それが持っていないが故に、日々の学習、授業が非常におろそかになる。アメリカに真似てシラバスというようなものは作っても、決してそれの中身を具体的に達成するということに対して、毎時間毎時間教授たちが自分たちのミッションであると思って、それに取り組んでいないということ。大学が、教授たちがそれに取り組んでいないことの必然的な結果として、学生たちもミッションも目標も何もわからないまま過ごしてしまうということ。そして、結果として、共犯ですね。教授と学生、あるいは大学と学費納入者との共犯として、勉強しないで卒業していくという学生の存在を許容することによって、大学が存在しうるという基礎がずっとできてしまってきたということです。これがこの50年間の歴史でありました。

 この50年を経て、これから新しい大学の生き方、あるいは大学生の生き方、これが模索されていきます。従来の目標、これがそのままでは通らなくなります。そうすると、勉強しない日本の大学生というようなイメージは全く通用しなくなるわけですね。今私が深刻に思いますのは、勉強しないのは日本の大学生だけではなく、かつて日本の大学生は受験勉強で疲弊しきって、そのために勉強しないと言われていました。そうではなくて、高等学校以下中学校・高等学校で勉強するということの意味をすっかり忘れて、勉強するということは知識を暗記することだと思い込まされてきて、そのまま育ってきた、そういう大学生がいる。これは国立大学なんかで、大きな有力な国立大学なんかは教官が集まると必ずぼやきとして出るものなんです。ともかくまともな「てにをは」を使った文章を書くことが何とか高等学校までに勉強を終えてもらえないだろうか、というくらいまで学力が下がっているという現実があり、それは私に言わせると、実は受験勉強という名のもとに、知識を身につけて、勉強したふりをする。そのことによって、カッコつき「優秀な」学生として大学に入っていくことができる。そういう学生が生まれてきた。そういう中学生・高校生が大量に誕生してきた。この歴史的な重みがあるわけです。

 この子供たちが今本当に18年とか20年を超える時代、それを超えて私達は抱えているわけですね。全くの基礎学力を欠いてしまった子供たちに、いかにして他大学と、あるいは他国と競争力のある人材として、その子供たちを育てていくか。そういう競争的な場面に大学は立たされているという自覚はあるのですが、そのための準備が全くできていないというのが現状なのですね。つまり、かつては、大学生は勉強していない。それは高校までの勉強で疲弊してきたから。しかし、高等学校までの勉強はかろうじてこなしてきたわけです。その高等学校までのかろうじた基礎教育でもって社会に出て、何とかやってきた。これがこの30年間であったと思います。

 しかし、この高等学校までの基盤的な教育がなされないまま、大学生を過ぎ、そして社会人になってしまった。そういう人たちが、かなりの数を占めるようになってしまったこの30年間。今後どのように私達が未来を展望するか、非常に厳しい時代が来ているんだと、私は考えております。この日本特有の現象、日本を含めアジアの中に数カ国そういう国が存在するのは事実でありますが、こういった国々において、将来ますます厳しい世の中になる。そういう時代を迎える中にあって、良い人材をどのようにして育てていけばよいのか。全ての人が必死に考えなければいけない重大な問題が、突きつけられているんだと思います。

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