*** コメント入力欄が文章の最後にあります。是非ご感想を! ***
しばしば私達が言葉を使うときに、あまり厳密に理解せずに何となく使っている、時代の流行に流されて言葉を使っている。ひどい場合には、ある意図によって作られた言葉に踊らされて、無意識に時代の新しい流れの中に飲み込まれている、そういう可能性についてお話しました。「働き方改革」というのも改革でも何でもない、要するに働き方を変えないと、これからみんな仕事に溢れてしまう。そういう状況に対する行政のキャンペーンに過ぎない、というようなお話をしてきたのも、まさにそういうことが頭にあったからです。私達はともすると、時代の持つ文化的な拘束性というものに鈍感になってしまう。その例として私達は、近代的な自然観、それが私達の生活の身の回りにもひたひたと迫っていて、一見科学的なようでいて全く非科学的な言葉遣いをしているのではないか、という話を今回はしたいと思います。
それは前に言ったことですが、力という概念が力学の概念として、非常に、決定的にと言った方がいいかもしれません、重要であるということ、これを明らかにしたのはニュートンであります。力という概念が加速度という概念と緊密に結合している、それが自然の現象を支配していると言ってもよいような基本法則であるということ、これがアイザック・ニュートンの最初のアイディアだったと思います。それ以前の哲学者あるいは科学者は、加速度と力のもつ関係に注目することができませんでした。17世紀以前の世界では、加速度という概念を計量的に測るための数学が存在していなかった。そんなこともあって、私達はその法則を非常に遠回りして理解してきたわけです。
典型的なのはデカルトでありますけれども、デカルトは物体の運動が、運動している物体が、運動し続けるということ、そして衝突すると、その大きな波及効果をもたらすということ、その現象を観察して、運動の持っている力、運動力のようなもの、これを考えていた。素朴に考えれば、デカルトのこの発想は間違っているとは言えません。そして、これは実はデカルトのオリジナリティというわけではなくて、中世の神学者たちが言ってきた話であるわけです。中世の神学者たちも、物体の持つ運動、それ説明するために、新しい概念、近代科学によってやがてばかばかしいものとして捨て去られる概念、そういうものを作ってアプローチしておりました。
アイザック・ニュートンが運動というのは、実はそれ自身は力を要しない、言い換えれば力が働いてないところでは、物体は同じ速度を持って運動し続ける。同じ速度というのは、方向も一定、速さも一定、そういう運動ということですが、慣性運動と言われるものですね。力が働かなくても運動はするという、ニュートンの偉大な発見の一つと言ってよい、大事なものだと思います。慣性の法則っていうふうに言われるものでありますね。原因がなくても現象が起こるのだという、これはアリストテレス以来の自然学に対する大きな、本当に大きな根底的な発想の転換だったと思います。全ての現象には原因があるのだと、アリストテレスは、こういう本当に基本的な基礎的な原理、その上に彼の哲学の壮大な体系を構築したわけでありますが。そういう因果関係というものより、もっと深いものがあると、つまり、例えば慣性の法則というのは、原因がなくても、原因がなければ物体は必ず運動し続ける。運動が途中で終わるのは、それを妨げる原因があったからで、原因がなければ、一定の運動をし続けるのだと、これはすごいことですよね。
同じように私達はやがて克服されるのだと思いますけれども、ニュートン以前の人々が考えていたように、力というもの、可能性というもの、それに対して、自分たちがわかったような顔をして、かなっていうのではないかと思う言葉の中に、人間が力学以外のところにも使う力という言葉がいっぱいあるという話を前にいたしましたが、今日はそのばかばかしい例として、体力っていう言葉を挙げたいと思います。「長岡さんは体力ありますね」とか、「だんだん体力がついてきましたね」と、そういうふうにおだてられて、一生懸命頑張ったりする。しかし、体の力って一体何なのでしょうか。考えてみるとよくわからない話です。考えてみるとよくわからないことを考えることなしに使っているということが、私は大変恐ろしいことではないかと、皆さんに注意のポイントを掲げてみたいと思うんですね。
考えてみれば、体力っていうものも何で測るのかよくわかりませんし、体力があるとか体力がないっていうのも、わからない話です。例えば、腹筋の力、それは例えば、腹筋の運動をどのぐらい続けることができるかというようなことで、相対的に測るということはできるかもしれません。あるいは腕力っていうのも、ダンベルを持ち上げる、そういうことによって、ある程度計量的に測るということができるかもしれません。しかし、それを超えた体力っていうのは何によって測ることができるのでしょうか。
最近、一般の人々に間に浸透しているのは免疫力っていう言葉ですね。免疫力なんていうのは全く意味が通じない言葉だと思うのです。しかしながら、医学が免疫の持っている非常に深遠な可能性、それに目覚めてきたということは、西洋医学もずいぶん進歩を遂げてきたものだと思いますが、免疫という言葉これは、疫を免れるっていうことですね。疫っていうのは何でしょうか。その字を見ればわかるように、昔だったら厄日とそういうふうに言われたような言葉です。厄を免れるこれが免疫なのですね。ものすごく古い中世の封建的な、そういう匂いを感じるような言葉だと思いませんか。その免疫力などという言葉が近代医学の最前線で重要な役割を果たしている。近代医学が、人間の持っている、あるいは生命の持っている不思議な免疫の可能性それについて、次第次第に解明し始めたということに過ぎない。これに気づいたということ自身はとても大切なことだと思いますが、例えば自己免疫疾患、免疫の力が強すぎて、それが自分自身を攻撃する。こういうような不思議な作用っていうのを人間の体の中に存在している。これがわかったことだけでも大変なことです。ありますけどそれを解明するには、今の基礎医学の力は、まだ圧倒的に不足している。圧倒的に不足しているということがわかったということが、私は医療の前進に他ならないと思うのですね。何もわかっていないのにわかったような顔をして、言ってみれば、解釈学に走っていた時代と比べると、それを免疫という反応の詳細なメカニズムというのに研究の目がいったっていうことは素晴らしいことだと思いますが、この研究の進展は、私達の明るい未来を約束しているのではなくて、私達が未来に向けて新しい一歩を踏み出したということに過ぎない。私達はほとんどがわかっていない、ということがわかったということです。私は、基礎医学の先生たちが、そういう免疫についての話をされるのをよく聞くのですが、ずいぶん医学も発達したものだと、つまり基礎医学の先生方が、自分たちがそれはわからないということが明確に言えるようになってきた。わからないということが言えるようになるということは、私に言わせれば、わかるということがわかるということに向かって半分前進したようなものでありまして、今まではわからないことさえわかっていなかった。そしてわかったような気でいた。そういう医療が、わからないことがあまりにもたくさんあるということがわかってきたということは、科学的なものに向かって医療が前進したということで、これは素晴らしいことだと私は思っています。
しかし、そういう意味で言うと免疫力とか体力と言っていますけれど、それは昔の人が元気と言ったのとそれと比べるとよっぽどくだらないですね。元気ってすごいですね、気が元に戻る、元の気になるっていう。それを元気と言ったわけです。気が病むことを病気って言ったわけですね。気というもの、これが人間を支配しているという私達の先人の知見というのは、今もっともっと脚光を浴びていいのではないかと思います。私達は物質でできている、というのが正しいですけど物質でもって全てが説明できるわけではない。むしろ「気」のようなものスピリットというものによって私達が生きているのだということこれを、私達に思い出させてくれるのが、元気とか病気っていう言葉だと思うんですね。気の力が弱まる。これがまずい。気の力を取り戻すことが大切だ。気力っていう言葉がありますね。これも気の力、まさしくそれそのものです。私達が使ってきた言葉の中に、人間の存在の根底に関わるような重要な概念が入っていたのに、私達はそのことにあまり気を配らずに、まさに気を配らずに、また明日元気でねって、こういうふうなことを気楽に交わしていますけれど、実は気を元に戻すっていうこと、これは、奇跡的に重要なことなのだということをこれは物語っているのだと思います。今回は、私達が言葉を精密に使わなければいけない、ということに関連して新しい流行に流されることなく、伝統ある表現の持つ言葉の深さに思いを馳せることも大切ではないか、という趣旨でお話させていただきました。
コメント