長岡亮介のよもやま話418「老人に新芽の成長の美しさに感動する心からの喜びを味わってほしい」

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 「最近発見した」といっても、大したことではないのですが、嬉しく思ったことのお話を今日はしたいと思います。

 それは、「よく年取った人間が、近頃の若い者はというような調子で、若い人のことを嘆き、悲しむ。あるいは嘆かわしいと嘆くという傾向が一般にある」と言われていることに関してですが、私も最近の若い人は、とつい言いたくなる場面も決してないというわけでは全くないのですけれど、本当に電車の中でのマナーなんかを見ていると、「本当に近頃の若い者は、全く」っていう、そういうことがつい口をついて出てきそうになるということがあるんですけれど、実際に個々の若い才能に出会って、その才能が花開いていく姿を見ると、私は「つくづくうらやましいな」とか、あるいは「つくづく若い芽の吹く姿は美しいものであるな」と、そういうふうに感ずることが多くなってきました。若葉の芽の美しさ、これは言うまでもと思うのですが、新緑の美しさ、これは格別のものがありますね。本当に命が輝いている。そういう姿を見て、素晴らしいと言わざるを得ない。そのくらい感動する。本当に若葉の芽吹いているところ、それは美しいものです。

 この若葉に感動するのと多分ちょうど同じように、若い人のはつらつとした姿を見て素晴らしいと思うのでしょうけれど、私の場合、単に若者が肌がピチピチしているとか、動作がキビキビしているとか、そういうことで植物の若芽の美しさに相当するものを感じるというのは、せいぜい赤ちゃんくらいでありまして、中学生以上になりますと、もうそういう美しさではない。もっとそうではなくて、人間としての知性といいましょうか、本当の人間らしさが目覚めてきている。そういう姿に感動するんですね。

 「そういうことがあったんですか」というようなことを、子供たちに言われたりすると、うふふふと笑いながら、ちょっと気持ち悪いですけれど、「うーん、実はそういうことがあるんだよ」というような話をする。子供たちの目が輝くその間早く目を見て、命の輝きより以上の知性の輝き知性が成長し、芽吹いていくときの、その輝きを感じて、大変嬉しく思うんです。こういうふうにして、人は育っていくんだということに感動を覚えるわけです。反対に言うと、自分はというと、自分は新しい発見とか、何かに接して、「そういうことだったんですか」と驚くようなことが最近少なくなってきて、「そうね、それはそんなことだろうね」というふうに、全てが想定内であるかのごとく振舞ってしまう。そういう自分が結局、知的に老衰している。衰えているということ、そのことの裏返しであるということを知って、すごく残念に思うんですね。若芽の美しさをもはや自分は持っていないんだということで、それは年取ってるんだから仕方がないといえば仕方がないんですが、反対に若い人がその知性に目覚めていく姿に接すると、まるで自分が生き返ったような、あるいは自分の若い頃にもう一度接したような、大きな深い喜びに出会う。この深い喜びのためにこそ生きているんだとさえ自分で思うくらい、喜ばしい瞬間なんですね。

 私は幸いなことに、この歳にしてまだ中学生のような若々しい世代と出会うことができるという稀有な人生、多くの人はそれが孫であるとか、何か自分の血を分けた親戚であるということで、それを嬉しく思うようなんですが、私は私の遺伝子を継いだ人間が同じようにそうであれば、それはやはり大したことないなと思うんですね。私は子供や孫がかわいくないわけではありませんけれど、そういう若い知性に接して感動する。そのときには、別に親子とか孫とかっていう関係は全く関係ない。むしろ関係ないもの中に、そういう人間としての同胞っていうんでしょうか、その可能性を感じて、嬉しく思うんです。おそらく私の同年輩、私の同類の人たちが、「最近の若い人は素晴らしいね。本当に若々しく、素晴らしく花開いていくね」ということがなく、「孫がかわいいんだ」というようなことしか言わなくなるということは、結局そういう素晴らしい場面に出くわすことがめったにないということの、非常に気の毒な結果であると思うんです。自分の知り合いのものが若い人の範囲には存在しなくなる。友達というとみんな自分と同年配の老人たちばかりになる。

 これが老人の寂しさあるいは老人の悲しさに繋がるんで、私自身は昔から大きな野心を持っていて、本当にお金があり余っている人がいたら、私に幼稚園を寄付してくれないか、あるいは小学校を寄付してくれないか、中学校を寄付してくれないかと。それも文科省の認定を受けているものである必要は全然ない。そうではなくて、ただ若い人たちが集まって、そこで知的に議論する勉強する。「君はそんなことを勉強したのか。」あるいは「君はまだそんなことを勉強しているのか。」そういうような会話を日常的に交わす場所が提供できたら、何と素晴らしいことではないかと。それはきっと老人たちにとっても、そういう場に出くわすことは老化の悲しみを忘れ、思わず若い人たちの成長を一緒に喜ぶ人間的な場になるに違いない。そういうふうに思うんですけれど、それは私のあまりにも巨大すぎる野望で、そんなことはできるはずはありませんが、私がいただいている様々な人生の幸せの中で、とりわけ若い人たちと出会って話すときの、私自身の心の踊りというか、あるいは輝きというか、そういう心の中に感じるもの、それをぜひ同胞の老人たちにも味あわせてあげたい。そのことによって、老人たちは精神的に若返るでしょうし、その精神的な若返りが肉体的な健康にもきっといいことに違いない。そういうふうにいいことずくめで考えたりもします。

まとめますと結局のところ、老人たちが「近頃の若い者は」というふうに嘆き悲しむ。あるいは嘆いて自分が偉そうな顔をする。そういうことにしか時間を潰せなくなるのは、若い人たちのこれから成長していく才能に出会うチャンスが少なくなっているからである。自分たちの持っている知識がその人の心にとっての知識の全てになり、自分たちがこれから学んでいく若々しい知性の輝き、そういうものと完全に縁が切れているということの寂しさに違いない、と思うんです。私は若い人たちにはもっともっと頑張ってもらって、私達老人を生き生きと元気づけてほしいと思うし、私達老人は若い人たちのそのような毎日成長する姿、それが肉体的に成長するというのではなく、精神的に成長するそういう姿に、思わずヤキモチを焼くような、昔を本当に懐かしむような、そしてそのことを通じて、自分の心の中の若さを思い出すような、そういう経験を積んでほしいと願っています。近頃、発見した老人の悲しみと、老人が見出すべき真の喜びについてのお話でした。

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