長岡亮介のよもやま話416「曖昧な「自然科学」的表現の氾濫に警戒しよう!」

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 数学の言語あるいはより広く自然科学の言語を一般に流用するときに、ひどく不正確に流用する傾向が最近見られるようで、私はこれは言葉の乱れとして、看過することのできないゆゆしく問題であると考えますので、その問題を提起したいと思います。

 例えばの話ですが、これはあまりにもひどすぎる例かもしれませんが、「かくかくしかじかである」ということは、否定することができないというような言明ですね。否定することができないということは、何を意味しているのか。それは否定しきれないで肯定の余地を残さなければならないという趣旨だと思うんですが、科学の言葉においては、基本的には肯定と否定しかない。肯定しか否定しかないという二つの値、「二値の論理」しか取らないということをもって、自然科学の言語は単純であると、馬鹿にする人がいますけれども、それは馬鹿にすることにならない。自然科学というのは、まさにこの日「二値の論理」を基礎とすることによって、発展してきているわけです。真でも偽でもわからない。そういうような曖昧なロジックを徹底的に排除しているということですね。自然科学において、真でも偽でもないという可能性を、あえて考えなければならないというのは、もはや自然科学の枠を超えているということです。自然科学的でないということです。もっとわかりやすく言えば、科学的な思考ではないということです。

 私達は、科学について語るときに、それは科学的な言明として、「まだ証明できていない」とか、「まだ立証できていない。不十分である」ということはいくらでも言いますけれども、究極的に、「その命題が真である。あるいは偽着である」と、その二つのうちの一つに決まるということを確信しているわけです。その確信を揺るがすような、「真であると断定することはできない」というような類の曖昧な議論、これは自然科学の言葉を使いながら、実はごまかしている論理でありまして、「こういう論理を科学の名において許しては絶対にならない」ということを強調したいと思います。もちろん、全てが自然科学的に整理できるわけではないということも、また深い真実なわけでありまして、我々が自然科学的な方法で迫ることのできない難しい問題もあるわけです。その問題に関しては、「自然科学的に、その問題にさかのぼることができない」と言うことは正しいと思いますが、「自然科学的に真であるとは、断定することができない」というような言葉使いは、私は絶対にすべきではない。特に若い人に、そういう曖昧な言葉を使う習慣を決して身に付けて欲しくないと、心から願っています。

 私達は、少なくとも自然科学の立場に立つときには、「真であるか、偽あるか」、そのいずれか一方であるということを、しっかりと見据えて議論を組み立てていく。そして、それができないときには、自分の議論の中に、曖昧なものがあるということについて反省をすべきである。そういうふうに私は考えるのです。自然科学の言語は極めて精密で厳密であるので、その厳密さ・精密さが良い面で発揮されるといいのに、その自然科学の言語の精密さ厳密さをあえて曖昧にするような、いかがわしい議論を展開する人がどうも最近増えているようで、これは本当に危険なことであると私は考えています。皆さんが、この私の非常に激しい議論に対して、反発を覚えることもあるかと思います。その反発を覚えるときに、それがどの部分であるかということを精密に考えてくだされば、私はその声に対して、私のより精密な答えを致す用意ができておりますので、よろしくお願いいたします。

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