長岡亮介のよもやま話415「小学校の先生の<働き方改革>というとんでもない改悪に思うこと」

*** コメント入力欄が文章の最後にあります。是非ご感想を! ***

 <働き方改革>という話題についてお話ししましたけれど、この話題に関連して、小学校の先生たちの残業時間があまりにも長いということが話題になっていて、専門教科担任制というのが導入されようとしているという話を小耳に挟みました。それについてお話したいと思います。教科専門、専門教科、どちらかわかりませんが、その担任といういわゆる総合的な担任の他に、専門科目の担任を設ける。その専門科目の担任というより担当者を設けるっていうことだと思います。既に英語、英会話とかですね、情報とか、そういう科目について、そういう専門の先生をお願いするっていう話は前から出ていましたけれど、それをいよいよ本格化させようという動きだと思うんです。これも実は、一種のワークシェアリングの発想に過ぎないと思いますが、極めて残念な解決法だと思いますので、私の考えをこれに関連してお話したいということです。

 それは小学校の先生というのは、各科目の専門に偏らないということに良さがある。それぞれの自分の関心の強い科目があってもそれは差し支えないですけど、その科目を超えて、子どもたちにいわば全教科に亘る基盤的な教養、それに責任を持つということが素晴らしいと私は思うんですね。例えピアノが下手な先生も、絵が下手な先生も、書道が下手な先生も小学校の先生っていうのは、それを全てこなす、それが素晴らしいのであって、先生でさえ不得意なものがあるっていうことも、子どもたちにとっては、ものすごく大きな励みになると思うんですね。「跳び箱だったら先生たちより僕の方がうまい」というふうにガキ大将が思えれば、そのガキ大将はそれによって救われるかもしれない。そういう可能性もあるということです。

 小学校の勉強内容くらい大人であれば誰でも教えることができるというくらい、厳選した教育内容なければ、そもそもならないはずであると思うんですが、それが専門教科担当という形で、小学校の先生の仕事が減らされるということに対して私は懸念を持ちます。懸念の第一は、まず小学校で勉強する内容が専門的な教員でなければ教えられないよう内容であるのかどうかということです。私は、もしそれほどの専門性が必要であるならば、それは小学校教育にふさわしくないと言うべきだと思うんですね。もちろん例えばバイオリンとか、あるいは体育とか、運動、野球でも何でもいいですけど小学校の頃からすごく上手な人に習う、そのことによって、早く才能を開花させるっていうことがある可能性も、もちろんあります。でも、それはそのような偏った才能を開花させるっていうことにすぎないので、それはもしかしたら大きな不幸に繋がるかもしれない、ということを私達大人は考えなければいけないと思うんですね。

 子どもたちの中にはもう本当にいろんな可能性が眠っている。その眠っている可能性をゆっくり引き出すっていうのが、小学校の間では大事なのであって、私は数学とか理科とか社会とか、国語とか英語とか、そんなもので専門の先生が必要だという内容が、もし必要だという人がいるならば、ぜひその内容を聞いてみたいと思いますね。私はあり得ないと思います。少なくとも算数に関して言えば、専門じゃなければわかんないというほどの内容を教えているとは思わない。

 中学のお受験の算数っていうのは、難しい問題があります。それはトリックとしての難しさであって、勉強の学びの基礎としての難しさではないですね。そんなものはクイズとかパズルを解くときに難しさに過ぎない。頭を悩ますことはあるとしても所詮パズルだということです。そういうパズルときも、子どもの頃は楽しいもんですから、それに集中する子どもがいても構いません。でも学校で教えるようなことではないと私は思います。

 学校では本当に正々堂々と学びの基礎それをきちっと教えていただきたい。そういうふうに願っています。少なくとも私の小学校時代の大恩師藤田至先生というのですが、藤田先生の教え方は、そういう教え方でした。先生は全ての科目、音楽や図工、書道も含めて全部藤田先生が見てくれましたけれど私はどの科目においても藤田先生は素晴らしいと思っていました。ものすごく尊敬していました。もし藤田先生が音楽が不得意であったとしたら、子どもたちよりも不得意であったとしたら、子どもたちの中から、きっと音楽の得意な少年あるいは少女を選んで、その子たちに指導させたでしょう。

 子どもに指導させると言えば、うちの子どもは子どもの頃からコンピューターに囲まれて育ってきましたので小学校に入る頃には、キーボードは私より早くて、しかも私のローマ字で入力するんじゃなく、ひらがなで入力しますからものすごく早いんですね。入力するではくだらないんで、山手線の駅名をぐるっと一周するとかっていうようなそういうようなものでありますけれども、本当に山手線一周するのは、もう本当に1分か2分で、私がカタカタとキーボードを叩いている、向こうはバタバタバタバタとものすごい勢いでキーボード叩くと、もう比較にならないくらい速いわけです。そういうふうにして育ちましたから学校のコンピューターの授業は、情報という名前でしたけど、うちの子どもが言った名台詞は、「学校に行くのは楽しいし、全部体育の時間だったらすごく嬉しいんだけど、つまらない授業があるんだ」って私にこぼしたんですね。つまらない授業の代表は、1番くだらないのは道徳で、次にくだらないのは情報の授業だと。情報の授業っていうのはうちの子どもに言わせると、文字を入力するのにマウスを使って入力するということを教えているらしいのですけれど、そんな馬鹿馬鹿しいことやる必要ないのにというふうにうちの子どもは思って、でも先生たちよりも、うちの小学校の息子の方が速くできるので、息子はその情報の授業の間、先生の代わりをやったそうですがそれでもやっぱりつまらなかったみたいですね。そういう先生の代わりになるような仕事をするっていうことでさぞかし鼻が高いかと思うと、そうではなくて、やっぱりくだらないものはくだらないのだそうです。

 それは置いておいて、教科、専門教科の担当が入るということによって、その時間先生が空くということで、先生たちの時間の余裕ができるっていうことのようですが、実にくだらないですね。小学校の先生は、朝から晩まで子どもたちと一緒にいるのが、とても大切なことではないかと思うのです。そういうことによって、子どもたちの様々な可能性に気がついてもらえる、なのに今の学校の先生は、成績評価のために膨大な情報を集め、それをデータ化し、客観的に説明責任を果たすことができるような資料を作る、そういう価値のないような仕事のために忙殺されている。というのが私の観察でありまして、そういう成績評価というような仕事をから解放してあげれば、先生たちはずいぶん時間ができる。

 そして私がもう一つ思うのは、先生たちの夏休み、冬休み、春休みを長くするということです。今の学校の夏休み、冬休みがあっても学校の先生たちは学校に行っているんですね。それじゃ休みになりませんね。先生たちも山や川、海に行き、そして日頃のストレスをそこで発散するそういうことがあって、一向に差し支えない。先生たちは普段忙しいのですから、そのときくらい伸び伸びと過ごすのがいいと思う。

 でも、そういうふうな発想にはならないんですね。みんなサラリーマン生活にしようとしている。みんな一様に押しなべて、全国の全ての教師が同じような仕事を同じようにこなすことが理想だと思っている。馬鹿げていますね。先生たちだっていろんな個性がある。そして、いろんな能力を持っている才能を持っている。その才能を引き出すことこそが大事なことであって、それを一様化する。霞が関の言うなりにあっち向いてほいっていうふうに言って、その方向にパッと向く、そんなような先生ばっかりになったら、結局その先生たちは子どもたちの方を向くことができない。そういう教師として無能な教師、名ばかりの教師になってしまうと私は思うのですが、いかがでしょうか。私は教師の<働き方改革>というのがそういうサラリーマン化するという方向で進むということに対して非常に危惧を持っています。小学校はとても大切な期間であるだけに、よりその思いを強く持ちます。小学校の先生が中学高等学校の専門教科の先生くらい専門教科に関して知識のない検定教科書のことしかわからないそういう先生で占められたら、小学校は最悪だと私は思うんですが、皆さんはいかがお考えでしょうか。

コメント

タイトルとURLをコピーしました