長岡亮介のよもやま話412「<働き方改革>という名のとんでもない改悪について」

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 今回は、最近やたらと叫ばれる<働き方改革>について考えてみたいと思います。<働き方改革>という奇妙な言葉で語られていますけど、その中身は、労働時間を制限して、残業などあまり増えないようにしようという趣旨にすぎません。それが働き方の改革なのか、という根本問題を今回は取り上げたいと思うのですが、そもそも自分がやらなければいけない、あるいは自分がやりたいと思っている仕事があったときに、人はそれを完成するまでに根を詰めて一生懸命頑張るわけですね、一日8時間とか、週40時間とか、そんな風に決めて働くわけではない、それこそ24時間集中して、その問題を解決するために努力する。人によってはある新しい技術の開発という問題もあるでしょうし、人によっては社内の様々な抱える問題、それを解決するために、努力するということもあるでしょう。

 研究者であれば、自分の抱いている関心、そこで見つけた良い問題を解決するために何をすべきかと、必死に考えると思うんですね。研究と言われているものは、研究を知らない人は、研究者が漠然と考えているというふうにお考えになると思いますが、実は何を研究したらいいかということを発見するのが一番大変なことで。どういうことかというと、あと研究計画を立てて、しっかりやっていけば成果が出せる、そういう見通しができるところまでは、計画段階で考えなければいけないことですね。その考えることという作業をやっているときには、全く解が見えてないわけですから、いわば出口が見えてない、そういう真っ暗闇の中で道を模索しているわけですね。そういうときには、本当に必死の暗中模索、まさに言葉通りの暗中模索が続くわけです。そんなときに、「今日は定刻になりましたからこれでやめます」って、そんなことできるはずがないですよね。

 芸術家にしてもそうです。ある作品を作ろうと思って、努力しているときに、その作品の非常に素晴らしい着想が思い浮かんだら、それが形になるかどうか、わかるまで試してみたいですよね。フルオーケストラのスコアを完成するっていうのは大変なことですけど、そういうフルオーケストラのスコアを完成させるという努力もさることながら、最初のモティーフ、それをどういうふうに展開していくかという主旋律の部分だけでも考えるのは、大変ではないでしょうか。しかし、それをある程度考えないと、それからの作業に取りかかることができませんから、途中でやめるわけには決していきませんよね。

 農家であれば、例えば稲を植え、田植えをするというときの、田植えのタイミングというのは、ごく限られているわけでありまして、そのごく限られたときに集中的に努力を投下しなければ、1年の成果、実りを期待することができない、そういうことになってしまいますから、田植えっていうのは何よりも優先して集中的に取り組む、ということになるでしょう。そのようにどんな仕事であっても、自分が絶対やらなければいけない、あるいは自分が絶対やりたいと思っている仕事は、時間を区切って、「さて、もう8時間働いたからこれで終わりにしましょう。」こんなことができるわけがないですよね。

 医療であってもそうです。医師が苦しがっている患者を前にして、「私はもう定刻ですからこれで帰ります」とこんなことやっていたら、医療になりませんよね。もちろんそういう無責任な医者がいるということは、否定しようがないですけれども、多くの真剣に戦っている医師は、本当に自分の生活を犠牲にしても、患者のために頑張っています。そういう人たちに向かって、定刻で切り上げなさいと、そんなことを政治の力、あるいは行政の力でやっていいものでしょうか。

 実はなんですが、行政がこのような働き方改革という音頭をとるには、その背景があると私は見ています。どういうことかっていうと、日本は人口がだんだんだんだん減少していく、そういう時代に入りまして、そのことはしきりと言われますが、実は日本の産業自身が、国内における産業があまりない、そういう状況が見えつつあるんですね。今はロボットによって、工場労働者というのが不必要な時代になってきています。そのことが象徴的ですが、要するに、労働者が必要なくなる、そういう時代になってきている。オフィスの、いわゆる昔はホワイトカラーと言われた人々、その仕事もなくなってきている。それを全部コンピュータが実行してくれる。要するに、介護とか医療とか、あるいは教育とか、そういう手がかかるところ以外は仕事が少なくなって人が余ってきているわけです。このように仕事が減ってくるようになると、1人の優秀な人が、しかもモラルが高くてですね、その人が頑張ったりすると、一般の人に仕事が回ってこない、仕事に溢れてしまう。そういう失業状態が、深刻になるということは、いわば統計学的な事実としてあると思うのです。行政はそういう統計学的な未来を見つめて、ワークシェアリング、要するに一つの仕事を何人まで分担することによって、みんなで仕事を分け合いましょう、それによって収入を上げましょう。そういう社会主義的な政策、それを国が先頭になって、やっているということであって、改革でも何でもない、これは改悪なんですね。1人1人にとっては生きがいが削がれることである。それで、それはその人々の生活を守るという意味ではいいかもしれないけれど、人々に仕事の喜びを人々から奪うものであると、私はそう思うのです。しかも、特に若い時代に一生懸命頑張ることによって、生涯の宝となる基盤的な基礎力をつける必要がある。そういう職人の技を磨くべき時期に、「今日は5時ですからこれで帰ります。」そういうふうに若手がやり出したならば、医療でもあるいは大工さんの世界でも、あるいは食事の用意に腕をふるう板前さんにしても、育っていくことがないと思うんです。そして、そういうことで自分の仕事に自信が持てない、そういう言ってみれば本当に無能なサラリーマン的な人ばっかりに溢れかえってしまう世の中になったならば、たとえ生活が保障されたとしても、その生活はえらく味気ないものになるのではないでしょうか。私は<働き方改革>という名のもとに、実は労働の本当の喜びを人々から奪おうとしている、そういう行政の姿を見て、やるせない思いを持っています。

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