長岡亮介のよもやま話410「現代社会で流注しているさまざまな「力」という語について」

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 今回は、最近の我が国でやたらに使われる力ということについて考えてみたいと思います。力という概念は、通常は物理でよく使われるもので、力学という分野において、力は頻繁に登場します。力学を中心とし、物理学というのは、力でもって全ての現象を説明できる、そういう理論体系であると言ってもいいかと思います。そのときの力というのは非常に明快で、質量×加速度というディメンションを持つ量であるわけですが、この力という言葉が、自然現象を解明する上で、なくてはならないものだということを、アイザック・ニュートンが示したわけです。以後、私達は、まさにアイザック・ニュートンが提唱したような枠組みの中で、自然の理解というのを進行させていると言っても間違っていないと思います。しかるに、現代では力という言葉を物理学におけるような意味とは全く違った非常に古典的な、あるいは古めかしい、場合によってはカビ臭いというべき、そういう言ってみれば力という言葉を比喩、あるいは例えとして使っているとしか言いようがないものに対して力という言葉をよく使っています。

 よくあるものでは魅力っていう、人を引きつける力って言いますね。引き付ける力っていうのはまさにニュートンが言うところの万有引力でありますから、ユニバーサル アトラクションである。アトラクションを働かせるためにアトラクティブであること、これはまさに魅力的というふうに訳されますが、人を引きつけるそういう性質を持ったものですね。力学の場合には魅力というのは、質量であるし、電磁気学では、それは電荷であったりするわけであります。魅力というのは、人間的な魅力っていうふうに言うときには、それは人を引きつける力だと言っても、決して加速度×質量の次元では表現できるものではありませんし、力学的な力というのとはちょっと違う、これは言ってみれば力といっても、例えの使い方に過ぎないということは、誰でもわかっていることだと思うんです。例えであるということがわかっていれば、それでいいのですが、その力という言葉でもって語られるだけに、客観的な指標、特にいわゆる定性的な話だけではなく、定量的な概念としても使うことができるっていう誤解が、一般に世の中に流布しているのではないかと思うのです。

 一番ひどい例は、学力ってことですね。学力っていうのは、字のまま理解すれば学ぶ力であることなのに、基礎学力って言ったときには、誰もが知ってなければいけない勉強の基本、それをきちっと習得しているかどうか。習得していることを基礎学力がついているっていうふうに学校の先生方は表現する。そんな基礎的なものを習得していることは、学ぶを進行させる上で、基本的な前提ではあるとは言うものの、本当の意味で必須の基礎というわけではない。例えば読み書きができるということ、これは学習をする上で最も基本的な能力ですけど、それはたくさんの漢字を読めるとか書けるとか、そういうこととは違うわけですね。一般に基礎学力っていうふうに学校で言われているものは、私に言わせれば全部必要ないものと言ってもいいくらいで、そういうのは本当に生涯の宝になるような基盤的な知性の力ではないと私は思うのです。

 本当に重要なのは、学ぶ力、新しいものに出会ったときに、これは新しいぞ、今まで未経験だぞというふうに理解し、その未経験のものをより深く理解するために、努力をする。努力して簡単に理解できない場合でも持続的な努力をする、これは結構難しいことでありますから、学ぶ力というのは、そのように解釈するならば、耐える力でもあり、非常につけるのが難しく、しかし付けるか付けないかで生涯にわたってその人の学習能力が決まる。そういうくらい大切なものではないかと思うのですね。でも、学校の先生たちが言っている基礎学力っていう言葉はあまりにも薄っぺたくて私としては力というふうに値しないと思うのです。そういう程度の力っていうのは、ごますり力とかですね、あるいは従順力とかですね、そういったものに過ぎないと私は思うんです。従って、力という言葉を使うに値しないと思うのですね。

 力というものを使うに値しないもの中に、免疫力っていうのもありますね。よく最近はその免疫が重要だっていうことでもって、免疫力って言います。えらく気軽に免疫力って言いますけど、免疫そのものが、あまりにも未開拓の領域であって、よくわからない。免疫っていうのは個体の生命を維持する上で欠くことはあり得ない、そういう重要な仕事をしているということまではわかってきていますけれど、免疫が機能するメカニズムの深淵、これについては私達はその入口にたどり着いた程度の知識しかない。まして免疫力を高める、免疫力の高め方とか、こういうことを言う人がいますけれども、そんな免疫そもそもをわかっていないのに免疫の力を高めるっていうことができるはずがない。

 同じような訳のわからない表現に、プレゼンテーション能力とかっていうのがありますね。企業の中に入って、営業畑に行くと、プレゼンテーションというのは非常に大事な仕事になると思いますが、商品の中身を理解してないのにプレゼンテーションだけが上手いっていうことはあり得ない。やはり良い営業というのは自分が売りたいと思う商品についての確かな知識、それを持っているっていうことが絶対重要であって、その知識があやふやなのにプレゼンテーション能力があるっていうのは、言ってみれば嘘つき能力がすごい、恥知らずだっていうことに過ぎない。こんなものをですね、学校教育の中で、プレゼンテーション能力が大事だというふうに叫ぶ人がいるんですけれど、頭がおかしいとしか言いようがないですよね。子どもたちにとって必要なのは、物事をきちっと理解し、その理解を伝達する。伝達したいと思ったときに、その伝達がうまくできないということを多くの人が自分自身で体験し知るわけです。そのときに自分の何がわかっていなかったのか、伝達能力がないっていうのは、結局のところ自分がわかってないっていうことに過ぎない。だから本当にわかれば、実は人にわかる話もできるわけです。プレゼンテーション能力なんていうものが、その基盤的な知識の他に、特別の能力としてあるというふうに思う方がおかしいと思いますね。

 同様に英語に関して英会話の力、会話能力、会話力、こういうのもおかしい。ペラペラペラペラ口先だけで喋るそんなものが人間にとって本当に必要なものであるわけでは全くない。そんなことを言えば、外国で生まれた子、少年たちはみんなペラペラと外国語を喋ります。みんな立派な人があるかっていうと、全くそうではありませんよね。例えば英語で、やっぱり会話ができるっていうことは、所詮英会話ができることでしかないわけです。大事なのは、英語でもって内容のある話、人の心を揺さぶるような話ができるかどうか、ということであるのに、そのことが英会話能力とかっていうふうに言った途端に、吹き飛んでしまう。そしてみんな騙されるんですね。

 インターネットでは、おばあさんが英語を喋れるようになった。その秘密は・・・こういう私についてくれば、おばあさんが英語を喋るように、あなたも喋るようになりますよ。こういう恥知らずな広告をしている人がいますけれど、おばあさんにとって英語が喋れたから、おばあさんの人生はどれほど豊かになるんでしょうね。年をとっても勉強し、新しいことに挑戦する、これは素晴らしいことだと思います。でもそれが英語だったら、あまりにも情けないですよね。それだったら日本舞踊ができる、あるいはお茶をたてることができることの方がよほど素晴らしいと思うんです。おばあさんが孫に正座の仕方を教えました、よほど素敵ではないでしょうか。おばあさんが子どもに「 Hi,how are you today !」こんなふうに挨拶したら、孫だったら引いてしまいますよね。ちょっと脱線しましたが、英会話力っていうのも力っていう言葉を使うから何かそれがメジャーで測ることができるようなものだと、そういうふうに誤解されてしまう。そんなものはそもそも測ることができないんだって言うことです。

 いろんな常識に関する検定なんてのがありますね。知識がどれほどしっかりしているか。旅行案内検定とかですね。中には数学の学力検定とかもありますけど、みんな私から言わせればでたらめ、そんな力があったからといって何にも人生が変わらない、そういうものばっかりだと思います。人間にとって本当に大切なのは、物理で言うところの力、ダインとかニュートンという単位で測られるような力、そうではなくて、むしろ未来に向かって可能性を広げるような力、具体的に言うことは難しいんですけれども、発展可能性ですね。未来に対して開かれていること、そういう意味では、物理で言うところのポテンシャルエナジーというのが、近いかもしれません。可能的なエネルギー、これはポテンシャルエナジーで、エナジーって言葉はエネルゲイアというギリシャ語の英語でありまして、エネルゲイアっていうのは、ギリシャ語において、エンテレケイアというギリシャ語と対になる非常に重要な概念でありました。ギリシャ語に由来して、エナジーという言葉が現代社会にも隅々まで入ってきているわけです。そのエナジー、エネルギーっていうのは、言ってみれば仕事をする可能性、それをその仕事量として測るものでありますね。このようなエネルギーを蓄積するということはとても大切なことだと思うのです。それは単に顕在的な力というのとはちょっと意味が違う。そうではなくて、潜在的な能力というふうに言うべきです。そういう人々の間に眠る潜在的な能力を引き出し、それを高める、これがとても大切なことだと思うのですが、残念ながら潜在的な能力というのは、本人でさえ気づかずに眠っているものですからそれを外から見て、あなたは潜在能力がこういうふうにありますよ、こういうふうに語ることができない。語ることができないからこそ、潜在能力という概念に魅力があるわけで、未来に対して開かれているというのはそういうことです。これを聞いてくださっている皆さんも、この世の中にあるいろいろな数値で表現される力、そんなものに振り回されることなく、未来に向けて、ありとあらゆる可能性に対して開かれている自分である続ける、そういうふうに毎日朝起きたら心がけてほしいと思っています。

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