長岡亮介のよもやま話409「pattern単語のさまざまの意味の違いについて」

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 「pattern学習」、あるいはより広く「pattern」と呼ばれるものについて、今日はお話したいと思います。

 物事の立ち現われというのは、そのバラエティーを分類すると、膨大な数になり、ほとんど枚挙することが不可能であるのだけれども、全体としてこのような傾向のものは、このようなものと判断して良いというpatternに従った認識。これが人間の認識の持つ一つの特徴であります。なぜ人間はそのようにpatternを学習することができるのか。

 これは、哲学的に永遠の問いだと思いますが、我々が外界を認識するときに、何らかの意味で、分類原理を持ち込む。その分類原理を、間違いなく適用して使っていく。これはすごいことですね。まだ言葉もしっかりと言えない赤ちゃんが、ワンワンとか、ニャーニャーっていう言葉を使います。犬に対してワンワン、猫に対してニャーニャーというわけで、犬と猫との中間の紛らわしい種類がありますね。私達大人が見ても、どっちと言っていいかわからない場合にも、赤ちゃんは的確にワンワンとニャーニャーを使い分けます。つまり、pattern認識がかなり精度よく行っているということです。精度よくゆくということは、結果としてうまくいっているというだけの話であって、論理的に、その推論が、正当化されているという意味では必ずしもありません。

 実用的に都合よく行っている。これがpattern認識と言われているものの特徴でありますが、最近は、といってももうここ数十年でありますが、そのpattern認識というものを、学習に応用したpattern学習ということがしきりと言われています。そもそも二番煎じを恥ずかしいという文化がどうも教育にはないようで、教育の人たちは二番煎じを率先して行う。二番煎じの一番煎じ争いと私は揶揄して言っておりますが、そもそも二番煎じに過ぎないのだから、1番とか2番とかっていう意味がない。所詮二番煎じである。そう思うのですが、二番煎じを率先して使うということを誇らしく思っている方が多いようです。

 pattern学習というのは、私達が物事を学習するときに、何らかの意味でpatternに当てはめ、そのpatternを理解することを通じて、学習が進展するというものです。哲学的な意味で、pattern認識がpatternの学習ということであるとすれば、pattern認識そのものが学習でありますから、取立て学習においてpatternということを言うに及ばないわけでありますし、そもそも学習というのは伝統的に、「猫のことをニャーニャー、犬のことをワンワンと正しく判別する類別が正しく行える」っていうことでもって、学問と呼んできたわけでは全くなく、「見た目の類似性の中に本質的な相違があるかどうか、あるいは見た目の類似性が本質的な類似性と重なるかどうか」ということを学問的に追求する。これが学習であったはずであると思うんですね。赤ちゃんが言葉を勉強するように、ニャーニャー、ワンワンを正しく言えたところで、それは人間的な学習と呼ぶには値しないものだと私自身は考えています。

 しかし、人間に備わっている驚くべきpattern認識の能力は、人間が生活をしていく上で重要な役割を果たすわけでありまして、犬と猫を瞬時にして見分けることができなければ、例えば、狩りのときに困るということはあるでしょう。よく似た動物の中で、獲物とすべきものと、獲物としてはならないものを、瞬時に見分ける猟師の腕はそういうpattern認識上に成り立っているんだと思います。生物学的な分類項目、それをいちいち割当てて、よってこれは熊であるというようなことを理解しているようでは、とてもじゃないけど、猟師が務まりません。

 実用的な意味でpattern認識の重要性は明らかなんですが、学習において、「pattern認識が重要である。それをpattern学習という」と言うようになったのは、この30年くらいだと思います。私は、それは言ってみれば、人間における学習というものを持つ意味に対する認識の低下が関係していると思うんですね。人間が学習するということは、もっと高次のことであるということを忘れて、pattern認識の程度で学習が進むという理解が、一般の人々の間にも普及してきているんだと思うんです。

 そして挙句の果ては、数学の問題を解くときに、この問題とこの問題は同じpatternである。同じpatternなんだから解法も同じである。こういうふうな教育が本当にまかり通っている。驚くべきことなんですね。私に言わせると、「この問題とこの門題は、実は見かけは違うが、本質的に全く同じである。よって解法も全く同じである。」これは正しい。当たり前の話です。一方、「この問題とこの問題は、見かけは似ているが、実は事柄の本質は全く違う。したがって、解法も全く違う。」これも学習の本質であると思うんです。それをあろうことか、「この問題とこの問題は、同じpatternである」と。同じpatternであるということを、何をもって認識するか、ということを全く反省することなしに、「同じpatternである。だから同じ解法が通用する」というような通俗的な学習「理論」、私は「理論」ということはわざと揶揄して使っているのですが、このようなものが世の中に普及しているということは、世の中の人々が、「理論」という言葉に対してそれほど鈍感になっているということの表れでありまして、私達の文化的な堕落の度合いを象徴しているんだと、私は思うのですが、皆さんはどうお考えになるでしょうか。

 私はここで、今回pattern認識という人間独自の持っている能力が、pattern学習という言葉に使われた途端に、すごく下卑たものになってしまうということを踏まえて、お話の第一歩を始めたわけでありますが、言うまでもなく、今AIという世界で行われているものは、まさに顔認識に代表されるようなpattern認識があるんですね。

 そのpattern認識がどのようにしてなされるか。人間が成しているような、これとこれとは似ているという曖昧な基準ではないんですね。驚くべき多くの情報に基づいて、その情報が正しいか正しくないか、コンピュータが作り出すpattern認識のアルゴリズムが現実に合っているか合ってないかということを、莫大な数についてチェックする。その莫大な数についてチェックした結果、一番最もらしいpattern認識、それは人間がやっているpattern認識とは恐ろしく違うものになるに違いないわけでありますが、コンピューターがやると、それが極めて精度よく当てはまる。こういうpattern認識の世界あるわけです。

 それは、従来言わてきた、コンピュータの初期に言われてきたpattern認識とは全く違うものでありまして、patternというものを、ものすごく小さな画素Pixelに分解し、そのPixel毎の情報を集めたり分解したりしながら、その中にある、ある種の情報の塊と思われるものを、コンピューター自身が選び出す。そのことを通じて、精度の良いつまり正答率の高い顔認識のpatternを、コンピューターができるようになるということであり、これは私達人間のpattern認識のレベルをはるかに超えている。私達人間が似ていると思わなくても、コンピュータが似ていると判断する。そういう代物であるわけです。そのようなものが、私達がコンピューターの初期にpattern認識というふうに呼んできたものと同じものであるかどうか、本当に反省をしなければいけないことでありますが、驚くべき精度でもって、正答率を稼ぐ。そういう現代のAIのpattern認識の能力、能力を支えるアルゴリズム驚くべき単純さと、ものすごい多くの学習素材データ量、それに基づく判断をできるだけ正確なものとするためにパラメータを決定する。そういう現代のAIの行うpattern認識と同じものだと思っては決してならないということ。これを申し上げたいと思いました。

コメント

  1. 福澤 純治 より:

    高校数学の教員です。ここでお話されているように,この問題はこれに似ているからこうやって解く,という「解法」を生徒は望んでいる。多くの類似問題を解けば多くの問題が解けるようになると勘違いしている生徒が増えていることは実感しています。そして,目前の目標達成(模擬試験や定期考査等)のためにその「わかり切っている」問題を出題する事情も少なからず理解できます。しかし,わずか3年という短いスパンでもその「
    救済策」から漏れていく生徒は多く,そのような学習を積み重ねてきた生徒にとって,アインシュタインの言葉を借りれば「学校で学んだことをすべて忘れたときに何が残るか」を考えてみれば,高校の多くの時間を費やした学習の成果は何であったのか,それに対して,「〇か×か」だけでなく,かけた時間とその努力に対していかなる評価を与えるのかについて真剣に考え,改善すべきことはするという行動が急務ではないかと考えています。覚えればできることでも,同じ結果を招いても,背景に目を向け納得と理解によるアウトプットが何よりも大切ではないかと考えています。
    とても勇気をいただくお話でした。ありがとうございます。

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