長岡亮介のよもやま話406「気づかれない学校数学の論理的な致命的欠点」

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 学校数学と言われるものの致命的な限界を、一言で述べるとするならば、学校数学においては、「言葉を厳密に使っていないがゆえに、存在existenceの問題について、ほとんど無視して通り過ぎる」という弱点があり、特に多くの人がこんな厳密な数学はないと称賛を惜しまない幾何学において、高等学校や中学校で教える幾何は初等幾何というんですが、その初等幾何において、看過すべからざる致命的な欠点というのを、抱えている。そしてそのほとんどは「存在」に関してであります。

 例えば、最も有名なユークリッドの“ストイケイア”原論と言われる本の第1巻、13巻本のうちの本当の入門編の第1編ですね。その第1巻の冒頭の命題というのは、「与えられた辺の上に正三角形を作図すること」という定理なのですが、その定理の証明において、ユークリッドは、ちょうど私達が今日行うように、「与えられた線分の両端点において、その線分の長さに等しい円を書く。そして、二つの円の交点、一般には2個あるわけですが、そのうちの一方を取ってきて、求める正三角形の頂点とする」、という方法を示しているわけですね。非常に見事な証明で、これを第1回の冒頭に持ってきたというユークリッドの目の鋭さに、深く敬意を表するものであります。なぜならば、その定理は、ユークリッドの証明した他の定理を利用することなしに、端的に証明できるからなんですね。

線分の両端点で、等しい半径の円を書く。二つの円の交点を頂点として、三角形の元々の辺と結ぶ、端点と結ぶ。正三角形ができる。子供でもわかることでありますね。子供わかることでありますが、ユークリッドはそれに厳密な証明を与えています。円の定義からして半径が等しい、等しいものに等しいものは相等しい。等しいという言葉の使い方、それに本当にびっしり則って証明を行っている。だから完璧ではないか、と普通の人は思ってしまうんですが、実はここに致命的な欠点が存在する。

 それはどこかというと、「与えられた線分の両端点をそれぞれ中心とする、与えられた線分を半径とする円を書く。」ここまではいいですね。円は書けるに決まっている。しかし、その「円の交点を取る」というところ。「交点を取ることができるに決まっているじゃないか。円は交わるのだから」と思うでしょうけれど、「円が交わる」ということは、まだ証明されていないですね。ユークリッドの時代の数学でもって、この二つの円が交わるということを証明することは、なかなか容易でない問題があったと思います。ユークリッドは、二つの中心の異なる円が交わるということ、その事実そのものを暗黙の前提として仮定してしまっている。ですから、このユークリッドの証明は、完全であるとは言えないわけです。

 そして、これは現代数学的な感覚でないとちょっと理解しづらいかもしれませんが、もし点全体の集合、びっしり点が埋まっている。そのびっしり点が埋まっていて、私達が点の座標を出そうすると、全ての点に対して座標を出すことができる。そういうようなびっしりと点が埋まった平面であっても、もしx座標y座標がともに有理数であるという点だけからなっている平面を考えたとします。そういう平面を考えたとしても、実際上私達が普段考えている平面と大差はない。無理数の点がなくなっているというだけでありますけれども、実は無理数の点が、有理数の点に比べると夥しく多く存在するわけでありまして、これは現代数学に連なる話題ですからここでは省きますけれど、ともかく、もし有理点、x座標y座標が有理数の点しか存在しない世界で、ユークリッドの主張を証明しようとすると、円を書くところまではできますけど、円と円との交点が実は有理点ではないので、x座標は $\frac{1}{2}$ となるかもしれませんが、y座標が有理数でないので、そこで円と円とは交わらない。穴が開いちゃっているわけですね。全部詰まっているという姿を考えれば穴が開いている。全部詰まっているという姿を思い浮かべることができないところでは、要するにその点で交点がないということ。言い換えればユークリッドの原論の第1巻の最も重要な定理、最も完璧に証明された定理において、交点が存在するということが、ユークリッドの立場では証明することができない。こういうことが18世紀以降の数学の展開の中で、わかってきたわけでありまして、「ユークリッド幾何こそが全ての学問の基本である」というかつての理想は通用しなくなってしまったわけであります。

 ユークリッド幾何の大きな限界は、点の存在に関することで悉く現れます。例えば、重心に関する証明ですね。「三角形において、与えられた3中線は一点で交わる。この線を重心と呼ぶ。」素晴らしい定理ですね。ものすごく深い定理で、子供の頃これを習ったときに、あらゆる三角形においてこの定理が普遍的に成り立つということは、私は嬉しくて嬉しくて仕方がなかったほど感動した思い出のある定理であります。けれども、その定理の証明がよくできているようでいて、とんでもない抜けがある。どういうことかっていうと、三角形ABCとして、BとCから、あるいはBとCを通る中線、つまり対辺の中点と結ぶ直線を書く。それを仮にBL、CMとする。LとMは、おそらく辺AC辺ABの中点ということであります。その中線を結んだとき、その結んだ交点、これをG’とおく。このG’が求める重心であるっていうことを証明するというふうにして、普通は証明を運ぶんだと思います。ここでも問題は「中線BL・CMの交点を取る」というところ。交点が存在するとは限らない、と言われたらそれっきりであるわけです。

ユークリッドの考えている平面の世界は、穴ぼこだらけの平面でなく、びっしり点が詰まっている世界であるということ。これを仮定しなければならない。ユークリッドは、いろいろな公理とか公準とか、きちっと証明すべき命題に先立つ命題を列挙していますが、考えるべき平面が全部穴ぼこが開いてない。数学では「完備である」と言いますけど、そのことは仮定してないわけですね。完備性を仮定しないとどうしようもない命題が、たくさんあるということです。完備性だけでは先ほどの中線の交わる証明も難しいかと思います。まだ他に仮定しなければいけない公理がたくさんあるということです。

 そういうことが近代になってわかってきまして、ユークリッド幾何というのは決して万能の学問体系ではない。そういうふうに考えられるようになったわけです。それに代わって、何が新しい数学教育の理想になるか。いろんなことが提案されてきていますけれども、現代の日本の状況を見ていると、誰もそのような論争がかつてヨーロッパ諸国において真剣に交わされていたということの歴史も知らない。したがって、数学教育の理想というのについて語ることも知らない。ある意味で、文部科学省の定めた学習指導要領が、まるで法律のように、全部それに従ってやっていれば間違いないんだというもののように、いわば金科玉条のように尊ばれて教えられているという現実があります。私はそれは数学教育としても、誠に不幸であるし、そもそもそれは数学の教育ではないと思うんですね。私は、数学教育は数学を教える教育であってほしいと思うのですが、数学を教えない数学教育っていうのがあるというかのごとき、学習指導要領の横柄な振る舞いは、私は甚だおかしいのではないかと感じています。

 このような学習指導要領が形づくられる中にあって、戦後の様々な歴史的な紆余曲折があるわけで、決して文部省だけを私は悪く言うつもりはありません。しかしながら、様々な紆余曲折を全部包括した上で、きちっと総括しなければならないということである、というふうには理解しています。従って、何人といえどもそれから責任逃れすることはできない。教師1人1人も責任を逃れることはできない。なぜならば、教師は勉強することによって、自分たちの教えている数学がいかにインチキであるか、それがわかるからであります。そういうインチキがわからないまま、「これをこう書かないと減点するぞ」というような、つまらない採点基準で子供たちを脅かしている。これは本当にもう考え出したら涙が出てくるほど、情けない日本の数学教育の実情ではないか、と私は考えております。

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