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最近、学校の先生方は、「数学が何に役に立つか」という生徒たちからの質問を浴びて、当惑していらっしゃるようですね。何に役に立つかが、自分自身が言えない。そうすると、子供たちから「やっぱり役に立たないのか、だったらやる必要がないじゃん」と言われてしまう。そのときにどういうふうに言い返せばいいのか、そういうことを悩んでらっしゃるんだと思います。
しかしながら、私に言わせると、数学の有用性、「実際に社会の中でどのように役立つか」ということを理解するためには、そもそも中学や高校生程度の数学の学力ではどうしようもないという面があります。つまり、数学についての知識だけではなくて、社会科あるいは自然科学、そういった身の回りにある現象について、体系的にあるいは演繹的な学問として体系立てるということの経験があまりにも乏しすぎて、そこに数学がなぜ役立つかということが入ってくる余地がないということです。
本当は有用性というのはとても大切なものであって、ぜひ有用性について理解してほしいと思いますけれど、例えば、最も簡単な「運動」という現象を見るときに、私達は物体の持つ運動の速度あるいは速さでもいいですね、その「平均的な速さと言われているものが、進行した距離を、運動にかかった時間で割ることによって得られる」ということを、公式として勉強しているわけでありますね。小学生の頃にそういうものを公式として与えられる。しかしながら、それが本当に運動の持つ速さを表現しているかというと、とんでもない話でありまして、それはあくまでも平均の速さであるわけですね。言い換えれば、私達が日常目にする様々な運動、それは瞬間瞬間に速度を変える。つまり、平均の速さではない瞬間速度でもってしか語ることのできない、そういう世界なんです。子供たちが運動会でヨーイドンで駆け出すことでさえ、そのような瞬間的な加速現象で、それが積み重なっていく運動であるわけでありまして、運動会の子供たちのかけっこ、それをどうやったら合理的に行われるか、特にバトンタッチのレースなんかでは、バトンタッチって本当に重要です。どういう時点でバトンタッチすべきか。こういう重要な卑近な問題で、それを考えることは小学校の子供たちにとっても、とっても重要な話題だと思います。
それを数学的にきちっとやろうとすると、瞬間速度という概念がどうしても必要になる。瞬間速度という概念を数学的に定式化しようとすると、高等学校の2年生ぐらいで勉強する微分の概念が不可欠なものとなってくる。となると、高校2年生までは瞬間速度について語れないということになってしまうのです。高等学校に入る前の中学校の理科において、物体の落下運動、いわゆる自由落下というもの、フリーフォールという運動が、実は2次関数である。時間に関する2次関数で与えられる。こういうことは理科として勉強しているわけです。おかしなことなんですね。本来瞬間速度という概念を理解するために、微分が必要であり、微分を勉強するのは高校2年生からなってからであるはずなのに、自由落下というまさに瞬間速度を考えなければならない運動、これは理科で、中学校で勉強する。要するに、論理的に整理されていないということなんです。自由落下の運動で、これを応用すると、野球で物体、ボールを打つと放物線を描く。よく「大谷選手の大きな放物線のアーチが描かれています」というふうに、実況中継で叫ぶアナウンサーがいますが、実際は、大谷選手といえども放物線を描いて打球を飛ばすことはできない。なぜならば、大谷選手が打つ打球の球は、空気中の抵抗をそれに打ち勝って飛んでいかなければいけない。そのために、真空中を運動する放物線のような理想的な運動は決してしないわけです。放物線は、皆さんよくご存知の通り、軸に関して対称な図形でありますけれども、野球で見るところの特大のホームランのアーチは頂点のところで対象になってるかっていうと、見るからに非対称であるわけですね。打球が頂点を通り過ぎた後は、空気抵抗を受けてますます減速する。減速しつつも、元々持っていた速度でもって、ホームラン席まで運ばれていくということであるわけですが、放物線ではない。ということは、打球のようにあるいは野球のようにものすごく身近な運動で、大谷選手のように頻繁にテレビに登場する選手のうつ打球、その曲線でさえ、実は数学的に解析しようとすると、かつてGalileo Galileiがやったような簡単な放物運動では全くないんですね。
言い換えれば、本当の応用数学というのは、純粋な数学よりも遥かに難しい。まず純粋な数学の問題として、理想的に問題を解き、その理想的に問題を解けたことを道具として、現実の運動を解析する。数学はそのように、実はまず最初に議論があり、純粋な数学の世界があり、そしてその世界が完成した後に、あるいはその世界が完成しつつある過程で、応用の問題が登場してくる。こういう構造を成しているということです。
ですから、実際の応用にすぐに役立つことというのを勉強しようとする気持ちはとても大切だと思いますが、残念ながらその期待に数学は答えることはないであろう、と私は断言いたします。なぜならば、実際の応用はとても難しいからです。もちろん実際の応用という問題を解くときには、具体的な応用という問題を解くということは、それを解いて役に立つということが最終目的になっていますから、役立つ範囲で正確に解ければ良いということがあるので、その役立つ範囲で数学を応用するという妥協が含まれています。従って、応用数学だからといってめちゃくちゃに難しいというわけでは必ずしもありません。
実際、私達が最近使っている人工知能と言われているものも、そのベースになっているものは膨大なデータであって、その膨大なデータを基にして、正しい判断を経験的に学ぶ。よくコンピュータサイエンスの世界では「学習」と言っています。コンピュータープログラミングが、その学習するという行為を通して、できるだけ正確に答えが出るようにしているということですね。もちろん、そういうわけですから、それが絶対的に正しいという保証は全くない。理論的な証明を伴っているわけではないからです。
でも、実用的にこの程度であればいいじゃないか、という程度の実用性。それが目的になっている有用性の世界というのも十分にあり得るわけで、そういうことを考慮して有用性というものが、数学においても語られるということがとても大切だと私は思っておりますが、少なくとも中学や高等学校のレベルの数学において、有用性ということを語ろうとすると、あまりにも道具が少ないということがあるわけです。それは数学において少ないだけではなくて、数学を取り巻く世界、例えば物理であるとか、化学であるとか、生物であるとか、地球科学であるとか、そういう理系分野だけでなく、例えば経済現象であるとか、あるいは日本語の文章を理解する。文節に分解して理解する、そういうような文法の理解であるとか、そういうものも含めて、実際に中学高等学校で勉強している内容は、あまりにも純粋すぎて内容が貧困であるということに、限界の源が発っていますから、その限界を破ることは決して容易なことではないんだということです。そして、その限界を破ることが何より大切だという主張も、それゆえに決して成り立ち得ないということであります。
私達が学校で教えることが本当にプアな、言ってみれば応用の利かない基礎だけになっているということは、誠に情けない現実でありまして、それを打ち破る努力はこれからどんどんやっていかなければならないと考えますが、それは決してすぐ応用に結びつくという話ではない。むしろ、「純粋な学問の世界を、より生き生きと勉強するということを通じてである」という基本問題を、皆さんに確認していただきたいと思い、こういうお話をいたしました。
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