長岡亮介のよもやま話403「数学の難しさ」

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 数学という世界認識についての特有の方法についてお話したいと思います。高等学校以下のいわゆる学校数学 School Mathematics の範囲では、その中で使われている言葉が、数学の言葉である以前に、言ってみれば日常用語あるいは子供のころから繰り返し聞かされていて理解した mother tongue と言われるものをベースにしているんですね。時々、高等学校に入ると、数学っぽい表現例えばベクトルであるとか、数列であるとか、あるいは微分とか、積分とか、日常生活では使わない言葉が入ってくる。

 そういうので専門用語というふうに言うんですけれども、専門用語としてそれらの言葉を使うときには、専門用語としての定義がしっかりしなければならない。しかるに、学校数学においては、そのような専門用語ですら、きちっと定義されていることはめったにないわけです。典型的なのはベクトルの概念でありまして、誰でも気楽にベクトルって言ってくれちゃいますけど、教科書を見てみると、どこにもベクトルの定義が載っていません。せいぜい定義らしいものを探すと、「方向とあるいは向きと、大きさを持った量をベクトルという」というような、いかがわしい定義が載っているだけです。なぜそれがいかがわしいかというと、「向き」という言葉が定義されていない。「大きさ」という言葉も定義されてない。まして、「向きと大きさを両方とも持つ量」という概念が定義されてない。定義されてないものを定義であるかのように、振舞っている。これは専門用語としての底を成していない、と言わなければなりません。

 しかしながら、澤さりながら、学校数学というのは、大学以上で学ぶ専門的な数学ではなく、いわば母なる言語 mother tongue の上に作られている抽象世界である。そういうふうに理解すれば、そう目鯨立てる必要はないということになるわけですけれども、問題はそのように曖昧な言葉を使いながら、「論理は厳密である」ということを数学の先生たちが標榜していることですね。「所詮学校数学なのだから、あるいは大学に入る前の数学なんだから、そこはいい加減でいいんだよ」って言ってもらえば、子供たちもずいぶん楽になると思うんですが、「ここのところは論理に飛躍がある」とか、「ここのところは表現が厳密でない」とか、そういうふうにいわばあら探しをされる。そしてときにはそれが減点の対象になる。笑ってしまいますけれども、それが現実に起きている。

 果たして、では学校数学というものが、本当の意味で大学並みの厳密さを要求できるような世界なのかというと、実はそうではない。どうしてそうなのかというと、私達の使っている基礎概念が、そもそも mother tongue と呼ばれる、いわば母国語というか標準語というか母なる言葉というか、私達が意識して使わない言葉に依拠している。数学という世界を構築する以上、言ってみれば数学の言語、自然言語でない人工言語でありますね。それを使いこなさなければならないわけですが、その人工言語を使うにはまだ高校生が成熟していないということで、自然言語で数学を行っている。自然言語で行っているための数学的な限界が明確にあるわけでありまして、例えば数学で使う基礎概念がめちゃくちゃであるということです。

 めちゃくちゃなるもの代表が「集合」という言葉でありまして、集合というのは英語で set と言いますね。フランス語で ensemble って言います。set っていう非常に簡単な英語で表現される概念でありますけれど、この言葉の簡単さの割に集合概念を理解するというのは非常に難しいことでありまして、高等学校の教科書に書かれている集合の定義は全てインチキだと言ってもいいくらいです。

 というのは、例えば「 6 の正の約数全体の集合」、いかにもをわかったような表現でありますね。「正の 6 の約数の全体からなる集合」、それを要素を列挙して書くと、$1,2,3,6$ その 4つの要素から成る集合である。要素をこういう列挙して書き方と、6 の正の約数というふうに、その集合を概念として記述する方法って2つがあるんだというようなことが、最もらしく教科書に書かれているのですが、実は要素を列挙して表すということは、本当は絶望的なのですね。なぜならば、集合はさっきのようにたった 4つの要素からなる集合である場合でさえ、列挙の仕方というのは、4 の階乗つまり 24 通りあるわけです。つまり $1,2,3,6$ という並べ方というのは、小さい順ということをあらかじめ前提にしている。別に集合の要素を列挙するときに、小さい順に並べる必要はない。集合というのはある意味で、その要素の中にいかなる秩序も仮定しない。そういう世界であるわけですね。このいかなる秩序も仮定しないものの集まりを考えるということは、えらく難しいことで、$1,2,3,6$ と同様に $2,1,3,6$ もあるし、$3,1,2,6$  もあるっていうわけで、全体全部列挙すると、24 通りもある。やってられないですね。

 それだけじゃありません。皆さんにとって最も重要な数の集合であるところの「自然数全体の集合」とか、「正の偶数全体の集合」とか、頻繁に出てくるものでありますが、それを要素を列挙するように書くとすると、自然数全体で言うと、$1,2,3,4,5,6,7,8,…$ というふうに小さい順に列挙するということは小学生でもできるんですが、小さい順でなくても良いというと、自然数全体の集合は無限に多くの要素からなっていますから、その要素を列挙する方法というのは無限通りあるわけですね。その無限通りというのが、私達の想像を絶するほどおびただしい無限である。これは大学以上の数学科の話題でありますが、そういうことがあるわけです。

 言い換えれば、教科書に書いてある要素を列挙する方法がかろうじて通用するのは有限集合という非常に特殊な場合だけであって、数学的に重要な無限集合になると、要素を列挙するという方法では記述することができない。これがまず根本にあります。そんな根本的なことも教科書には書かれていないという現実がまずあるんですね。それは困ったことなんですけれども、集合という言葉を少しでも多くの人に広めようと、善意で考えた人々もかつていたんだと思うんです。そういう人々は、何とか集合という言葉を人々に理解してもらうために苦心して、いろいろと工夫した結果なんだと思いますが、苦心した結果が実は嘘になっているということです。

 同じことは、「集合というものは要素を集めると集合ができる。」こういうふうにいわば、必然的に集合ができるかのごとく、人々は言っていますが、例えば「点を集めると図形ができる」というふうに言いますが、点をどのように集めるかによって全く違う図形が出来上がるわけですね。無限に多くの点からなる集合として線分というのを考えることができる。この線分上には無限に多くの点があるわけです。その無限に多くの点からなっている集合だっていうふうに、普通中学生や高校生は捉えると思いますが、さて、線分上で両端点のうち一方の端点を奪ってしまう。片方の端点のない線分を考えてみてください。それも点集合でありますよね。点集合であるけども、両方ともに端点がついている線分と、端点のうち一つしか線分の中に含まれていない、片方が開いた線分。それは同じ点集合であって、点の個数ということで言えば、1点違うだけなんですね。無限に多くの点からなる集合の中で、たった1点だけが違う。

 たった1点だけが違うというのをさらに進めると、線分から両端点を除く、普通は開区間なんていうふうに学校では習いますが、そういう線分も点集合です。線分の集合の中で、たった2点が足りない。それだけで違う集合になる。無限に多く点があるんですよ。そのうちのたったの2個、そんなのは例外中の例外ですよね。普通だったらどうでもいいことだと言って済ますことではないでしょうか。

 そのように単に点が集まったものとして図形を考えるという素朴なアプローチが、本当は最初の最初で破綻しているということです。「集合の考え方、これが現代数学を理解する上でのキーワードだ」とそんなふうに宣伝する人たちがいっぱいいるのですが、集合論の一番重要な基本的なこと、それは集合というものを考えるときに、「その要素の間にいかなる秩序も考えない」ということ、そこに集合論の一番重要なポイントがあるんだということが、学校教育でもさらに科学的な啓蒙主義番組でも省略されているところです。私はそういうとても大切なところを無視する啓蒙番組には、どっかにうさん臭さを感じてしまうのですが、いかがでしょうか。

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